陽編 至難の業だと本気で
『子供を社会で大きな成功を収めることができる大器に育てる』
というのは確かに難しいと思う。光も灯もそこまでの人物に育ってくれたとまでは思わない。彼女らが<大企業のCEO>とか<政治家>とかそういうのになっている<もしも>を想像しようとしてもできないな。
ただ自分の家庭と家族を守ることができる誠実な人間だとは思う。<仕事>も真面目にこなしてくれるし。『厳しくされなきゃ相手を嘗める』なんてこともしない。とにかく真っ当に人間として普通に暮らしてくれてるんだ。
それで十分じゃないか。凡人が育てる人間なんだったらそれ以上を望む必要がどこにある?
『立派な人間を育てた親として評価されたい。称賛を浴びたい』
のか? そのために子供を育ててるのか? だとしたら子供は<そのための道具>ってことか? 俺にはまったく理解できない考え方だな。理解したくもないが。
本気でそんなつもりで親をしてるのなら、自分を生んだ親に<人間>としてではなく<親の自己実現のための道具>として飼育されてきたんだとしたら歪んでしまってもなにも不思議はないと思うが。他者を『敬う』ということができず『自分より強い存在だ』というのを威力でもって見せ付けられないと従う気にもなれなくなっても当然かもしれない。
だが俺はそういうのは本当に、
『人間という生き物としてどうかしてる』
と思う。『野生の獣として生きる』こともできず、『人間としても歪んでる』なんて、哀れにもほどがあるだろう。俺は自分の子供をそんな風にしてしまいたくないし、実際にそんなのにはならなかった。そして光と灯が育てた子供も『自然と相手を敬う』ことができるように育ってくれた。無理にそういうポーズを取ってるんじゃなく、意識せずともそうできるんだ。凡庸でありつつも、『他者を敬い慮る』ということができれば、多少の能力の違いがなんだっていうんだ。誰もが非凡な才能を見せて<余人にはできないこと>をやってのける人間ばかりいるのが人間社会というものだと思うのか?
『厳しくされなくても自身の役目を当たり前のこととして誠実に果たそうとする』
そんな人間を育てるのは<至難の業>だと本気で考えてるのか? ただ自分が<手本>となる振る舞いをするのが嫌なだけじゃないのか? 手本になるような振る舞いをするのが面倒だというだけじゃないのか? それは甘えじゃないのか?
俺は甘えだと思う。俺自身もついついその辺りを疎かにしてしまいそうになるからこそ『甘えてるだけ』なのが分かってしまうんだよ。




