陽編 不可能とまでは感じない
『それぞれの認識をすり合わせてその中で何がその時点では適切なのかを探る』
これは、<認識のすり合わせを行う相手>が増えれば増えるほど困難になっていくものだというのは、分かるだろう? 事実上不可能といっても過言じゃないくらいに。
だが、ほんの数人なら、最も自分の身近にいる者達だけとなら、『不可能だ』とまでは言えないんじゃないのか? もしそれすら不可能だと感じるなら、その原因はなんだ? どうしてそう思う? そう感じる?
『相手が認識のすり合わせを拒否してくるからだ!』
と思うなら、『認識のすり合わせを拒否するからそれが難しくなる』なら、他者と穏当に良好な関係を築くにはまず自ら認識のすり合わせを行う姿勢を示すのが大事だと分かるんじゃないのか? それを拒んでおいて、
『向こうが自分を拒んでる!』
みたいなことを言うのはただの<他責思考>というものだと俺は感じるんだよ。不特定多数の他人と認識のすり合わせを行うのは桁違いに困難になるにせよ、少なくとも普段からよく見知っている<自分の身内>相手になら不可能とまでは感じないと思うんだ。が、それを『不可能だ!』と思わせてしまう人間がいるのも事実ではあるか。
ただ、そこまでなのはさすがに少数だろうし、やっぱり自分の身内とさえ認識のすり合わせを行おうとしないのは<逃げ>だと感じてしまうな。特に親が自分の子供とのそれから逃げているのは本当に情けないと思う。
『子供が何を考えているのか完全に理解する』
必要はないはずなんだ。
『自分じゃない人間のすべてを理解するのは、生き物である限りは不可能』
だから。あくまでもそこにいるのは<自分の思い通りになるもの>じゃなくて<自分の思い通りにはならない命>だと理解し、その上でその存在自体を敬い慮るようにできればいいだけの話だし。
俺の言ってることが理解できないというのならそれでも構わないし理解しろとも言わない。だが、俺は、
『子供が言うことを聞いてくれない!』
なんて泣き言を並べなくてすんでるし並べようとも思わないのは事実だ。錬慈も朗らかで穏やかな様子で健やかに育ってくれてる。そんな彼を俺は<自分とは違う人間>と認めてる。だからこそ自分とは違う人間として敬ってるし慮ろうと思ってる。俺にはそれができるしできてるししてきた。少なくとも自分の身内や本の身近にいる人らと穏当に関わっていくために。
なにも三百億人全員と分かり合えるとは考えてないし、世界そのものを変えられるとも思ってないんだ。




