陽編 それを向ける必要のある人間
旋が亡くなり、弔いを終え、なんとなく気持ちの切り替わりを感じつつ、俺達の何気ない日常は続いていく。
つくづくこういうものだと思う。思いがけず事故や急病で亡くなった場合にはまた違うんだろうが、それこそ<事件>という形で喪えばなおのこと強く引きずられたりもするんだろうが、いわゆる寿命を迎えての<大往生>ともなれば、こんなもんなんだろうなと感じるんだ。そして誰が亡くなっても世界は終わらないし、大きく変わることもない。あくまで個人的に影響を受ける場合もあるというだけのことだ。
これは、俺が死んだとしても同じだろう。俺がいなくなってもやがて朋群人社会は出来上がっていくと思う。俺が想像しているものとは違ったとしてもな。
<命>とはそういうものだ。『人の命は地球よりも重い』なんてフレーズが使われることもあるとはいえ、それはあくまで『そう感じる者にとってはそう』というだけの話でしかない。そして『そう感じる者がいる』のは紛れもない現実なんだ。それを蔑ろにしていては<人間社会>は成り立たない。
その上で『お前もそう感じろと押し付けるのは話が違う』ということだよな。
と同時に、
『命を価値で語るのは大きな齟齬の原因になる』
のをわきまえなきゃいけないと痛感するよ。『人の命は地球よりも重い』なんてのも要するに『命を価値で語ってる』ってことだしな。<価値>なんてのはそもそも人それぞれだという前提を冷静に捉えれば『お前もそう感じろ』と押し付けることはできないし、そんなことをしようとすれば反発を受けるのは当然だ。
大事なのは『価値のあるなし』じゃなくて、
『人間という生き物は他者と力を合わせないと生きていけないという事実と向き合えるかどうか』
だと感じるんだよ。
朋群人はその点で地球人とは違っているものの、だからといって互いに害し合っていては無駄につらくなるだけだろう。その点は変わらないと思う。陽も和も立派に<戦士>としての資質を持っていると感じるが、それはあくまで<外敵との戦い>で発揮してくれればいい。同じ人間に向ける必要はない。<それを向ける必要のある人間>を生み出さない社会であることが必要だと俺は思うんだ。
もちろん完璧とはいかなくても、稀にそういう人間が出てきてしまうとしても、そこまで頻繁じゃなければ対処もしやすくなるはずだし。
地球人社会ではその辺りについても、何度も言うようにロボットが活躍してくれているわけだ。




