ルイーゼ編 抑制的でいなきゃいけないと
ああそうだ。<体罰>を肯定する人間がその根拠としてる理屈の一つに、
『殴られることで他人の痛みが分かる』
などという妄言があるが、実際には、
『暴力に慣れることによって痛みに対して鈍麻する』
という弊害の方がはるかに大きいことも分かっている。それは『他人の痛みが理解できるようになる』などではなく、むしろ、
『他人の痛みをリアルに想像できなくなる』
と言った方が正しいだろうな。真逆なんだよ。それなのに<体罰を肯定したがる輩>はその事実には目を瞑り、ただ自分が感情のままに他者に暴力を振るいたいのを正当化するために『他人の痛みが分かるようになる』などという戯言を並べるんだ。
俺だって理不尽に危害を加えてくる相手に<話し合い>が有効だなどとは思ってないよ。問答無用で攻撃してくる相手に対しては力で対抗するしかないのも分かってる。だからこそロボットに攻撃力も持たせてる。特にここには人間を餌と見做すであろう猛獣が無数にいるからな。それを相手に言葉は<無力>どころかまったく意味をなさないわけで。
だが同時に、自分の感情を優先したいがために『憂さを晴らしたい』がために暴力を肯定するなんてことはしたくないしするつもりもない。そんなのは<他人を理不尽に害する輩>の発想と同じだ。
それに何度も言うように、人間(地球人)は<力のアウトソーシング>を可能にしてしまった時点で<力>というもの自体を抑制的に使わなきゃいけない業を背負ってしまったんだ。それを蔑ろにすれば待っているのは<破滅>だしな。そんなことは<他者を理不尽に害する輩>を見れば分かることのはずだ。力を抑制的に使うことを放棄した奴らがまさしくそれなんだから。ましてや<核ミサイルのボタン>を押せる立場の人間が自分の感情ばかりに正直になるのがどんな意味を持つのか、少しでも己を利口だと考えるのなら簡単に想像できるんじゃないのか?
そして今の俺が、俺自身の個人的な感情にばかり正直になって<力>を行使すればどんなことになるか、想像できないか?
『善良な人間だけが力を使えるようにすればいいだろ!』
とか言うかもしれないが、それが<実現不可能な理想論>だとどうして思わない? 現実には力に頼る奴の多くが他者を理不尽に虐げることも厭わない輩なんじゃないのか?
その事実と向き合えばこそ俺は安易に力に頼ることはできないんだよな。力を使うにしても抑制的でいなきゃいけないと思い知らされるだけなんだ。




