焔と彩編 生態の違い
人間(地球人)はもう、<自然回帰能力>を失ってしまった。文明から完全に切り離されて、<文明の利器>さえ一つも使うことなくただ裸で自然の中に放り出されればほとんどの個体は死ぬしかない。ほんの数日生き延びられたとしても、自身の寿命をまっとうできるほど生きていけるのは極めて例外的な存在だけだろう。
それは結局、人間(地球人)がただ本能に従っていれば生きていられるだけの能力を完全に失ってしまってることを表してるそうだ。<摂食>や<繁殖>に必要な本能自体はまだ残っていても、それを確実に実行できるだけの<肉体側の能力>が失われているから、<食事>もままならないどころか<体温の維持>すら文明の利器頼みで、それなしじゃただ衰弱死するしかないんだよ。
でも、野生の場合は、確かに生き延びられない個体も決して少なくはないものの、<種>そのものを維持できる程度には生きていける個体もいる。しかも、それこそ<生まれて間もない時期>であってもだ。
<ウミガメ>は砂浜に掘られた穴に卵として産み落とされて、親の助けを一切借りることなく孵って砂から這い出して海を目指していく。何十と産み落とされた卵の中から生き延びられるのはほんの一握りであっても、人間の赤ん坊は産み落とされて放置されれば全員死ぬ。少し早いか遅いかの違いはあっても全員死ぬ。自分を生かすだけの力がないからだ。
でもそれはあくまで<生態の違い>であってどっちが正しくてどっちが間違ってるとかいうもんでもない。『自分の子供を守り育てる』のは、もう<人間(地球人)の本能>とでも言うべきものなんだろうさ。それに従うからこそ人間(地球人)は生き延びられる。
そして<竜人>もあくまで本能に従ってるだけかもしれない。その上で自らが生き延びるためには敵対する者とは戦わなくちゃいけない。
そういうことなのかもな。
だから、
「敢えて手出しをしないで放っておけば、本能に従って目的地まで勝手に行ってくれるかもしれない。ということか……?」
「その可能性はある。というだけではあるけれどね」
確かにな。アカトキツユ村そのものが目的地である可能性も、村がただ進路上にあるだけの可能性も、どちらも間違いなくあるのは俺にも分かる。
後者の場合は、村を通過するだけでなにか被害をもたらすわけじゃない……か。
そこに、久利生が、
「アカトキツユ村が目的地の場合は意味がないけれど、もし村が単に『目的地への進路上にある』というだけならば、誘導することで進路から外すのも可能かもしれないね」
発言したのだった。




