焔と彩編 重要な争点
実際にことに至るまでにいくつもの<セーフティ>があるにも拘わらず、他者を傷付ける行為に至る。
それは結局、<強固な害意>があればこそだ。強い<動機>があればこそだ。じゃなきゃどこかで思いとどまってるだろうし、一瞬でも躊躇えばその隙にロボットが止めてくれるだろう。
だから、
『<行為に至ったという事実>こそが<犯意>を表している』
という考え方が、現在の地球人社会の司法では主流だ。<酌量の余地>は今でも重要視されるが、酌量の余地があるほどの場合はたいていが<未遂>に終わる。
よっぽど間が悪かったりしない限りはな。
それもあって、今の裁判では、
『本当にその事件は止めることができなかったのか?』
という点が重要な争点になるんだとか。
<人間は失敗する生き物。過ちを犯す生き物>
であるがゆえに、『つい』という点についてはそこまで強い害意としては捉えられない。いくつものセーフティを意図的にかいくぐり実行したとなればそれは、
『正気かつ強い犯意に基づいている』
という事実を裏付けていると言えるだろ?
となれば、
『酌量の余地は皆無に等しい』
と考えられないか?
で、酌量の余地はないと判断されれば<終身刑>が言い渡される可能性が高くなる。その一方で、現在の<刑務所>はそれ自体が<罰>の要素は基本的にない。終身刑を受けた受刑者でさえ、
『外に比べれば行動の自由が制限されている』
だけで、普段の暮らしぶりはそこまで劣悪なものじゃないらしいんだよな。これは逆に、
<終身刑を出すハードル>
を下げる効果ももたらしてるらしい。
『あくまで反社会的な気性を改めることができない者を一般社会から隔離するのが目的の刑だと割り切れる』
ってな感じで。
しかも受刑者の世話はロボットがしてくれるし、受刑者自身の生活のコストは受刑者が行う<刑務作業>の収益によって多くが賄われているのは、たぶん以前にも触れたとおりだ。
これらのことは、刑務所の維持管理に従事している人間の心理的な負担の軽減にも役立ってるとのこと。
『社会に大きな負担を掛けて凶悪犯を生かしてるわけじゃない』
と考えられるというのは何より大きい。
この辺りもやっぱり心理的な負担になりやすいしな。それでもなおあれこれ言ってくる輩がいるからこそ必要なものなんだ。
現場の人間はあくまで規定に基づいて仕事でやってるだけだし。それを責める必要がどこにある?
その点、焔と彩、新と凛の件は、どこまでもお互いに望んだ結果だ。自分の欲求を一方的に押し付けたわけじゃない。




