ホビットMk-Ⅱ編 誰も彼もがそんなことを
『わざわざ隣家との境界線を越えてまで花壇を築いた<花を育てるホビットMk-Ⅱ>ではあるものの、ロボットであるホビットMk-Ⅱ自体には、本来はそんなことをしなきゃならない<理由>がない。<花を育てるホビットMk-Ⅱ>がそんなことをしでかしたのはあくまで<そういう設定>を敢えて与えたから』
これは紛れもない事実だ。
つまり、そういう形で<隣人トラブル>を起こす人間にも、本来はそんなことをしなきゃならない理由はなかったはずなんだ。
生まれたばかりの頃の赤ん坊が、そんなトラブルを起こすか?
確かにある程度成長して、自分で好き勝手に動けるようになってくると、<我儘>を口にしてそれを実行しようとしたりすることもある。他者との境界線がまだ理解できていなくて、自分の都合ばかりを優先しようとする時期もある。
だがこれは、あくまでも成長の段階で一時的に生じるもののはずだ。自我が確立されて<自分>というものを持ち始めて、その自分というものが『どこまで』なのかを実地で学ぶためにそういう段階を経るんだというのも分かっているそうだ。
そうやって、<自分>と<自分以外>が存在することを実感して、自分以外との境界線を学んでいくという。
そこで健全に学ぶことができれば、
『他者と穏当に折り合いをつけられる』
ようになっていくわけだな。
しかし逆を言えば、そこで『健全に学ぶ』ことができなかったりすると、<他者との折り合い方>が身に付かない場合があるということだ。
そして、
<他者との折り合い方を学ぶ一番の機会>
こそが、
<親との関係>
だというのも判明してる。
<親>は子供にとってはそれこそ、
<世界の代表>
であり、
<人間というもの自体の代表>
でもある。その親が子供との関係を穏当に築くことができれば、子供も実地で<他者との折り合い方>を学ぶことができるというわけだ。
これは、俺自身も親として子供を育ててきて改めて得られた実感でもある。
ここで重要なのは、
<親は、子供本人の承諾を得ることもなく勝手にこの世に送り出した張本人>
だということだ。そんな親だからこそ、<子供の我儘>も受け止める義務が生じてくる。我儘を受け止めることで子供に自分の存在が許されているという実感を与え、同時に、
『自分自身の我儘と折り合いをつける』
ことを学んでいってもらうんだよ。
『自分の我儘を他者に一方的に押し付けることはできない』
のは紛れもない事実だ。誰も彼もがそんなことをしていたら、人間社会は簡単に崩壊する。




