日常の変化
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世間が浮き足立つ花の金曜日。の、朝。
つり革を握りしめて鞄を胸に抱いた俺は、いつもと変わらずに満員電車に揺られていた。
目的の駅に着くまでの間、特に何もする事が無くて車内に貼られた見慣れた広告をなんとなくボーっと見つめて時間を潰す。
そうして人に揉まれつつも会社の最寄り駅の2つ前にある駅に着いた時、ポケットに突っ込んでいた携帯が震えたのに気付いて急いで取り出せば画面に先週から話されていた飲み会の話題がLINEのグループ会話として表示されていた。
「今日、か」
約束をしていた日は今日で、仕事が終わり次第行くと連絡を入れれば、既読とまばらな了解の文字。
それから携帯の振動が止まった事を確認すると、ポケットへと携帯を戻す。
高校時代の友達と飲みに行くのは久しぶりだ。少し嬉しくて浮き足立ってしまう。そんな事を考えてにやついてしまうのを咳払いで誤魔化しつつ、明日からの休日も相まってなんだか今日はいい事がありそうだ、と会社の最寄り駅で電車を降りた。
とは言え結果としてみれば、今日は散々だった。
駅から会社までの道のりにある信号は全て赤い色。
体調不良や長期休暇に入った先輩の仕事がこちらに回ってきたせいで昼も食べれない程多忙を極めて、トイレに行こうと思ったら清掃中。息抜きにコーヒーを買いに行ったら女子社員達の陰口を聞いてしまったりと、酷い有様である。
そして先ほど、明日提出の未完成な書類を渡されて思わずため息をつく。
さすがにこれはつらい。
「今日はもう上がっていいよ」
極めつけに年下の上司にそう言われ、俺は力無くウスと答えて荷物をまとめた。
時計を見れば、今日の飲み会が開かれる予定の時間はとっくの昔に過ぎていて、この時間に行ったとしてもお酒で出来上がった彼等のテンションに絡まれるのは、少し…疲れるものがある。
なので、適当にそれらしい理由をでっち上げて、今日の飲み会には行けそうにない、と携帯で連絡をいれれば、それに対して早めのokという返信が返って来た。
少しくらいは引き止めるか残念がってくれよ、と苦笑いをこぼして、肩を落とす。
もしかしたら今日俺は行ったとしても楽しめなかったかもしれないという考えさえ浮かぶ。
ああやめやめ、と頭を振ってネガティブな考えを取り払おうとしたが中々難しい。
「被害妄想しすぎかもな…」
ははっと自分で自分を笑って、ため息をつく。
勝手に期待した自分が悪いとはわかっていても、朝にしてしまった今日一日に対する期待に裏切られて、今日は何だかいつもの10倍疲れている。早く布団に入って休みたい気分だ。
けれど暗くなったパソコンの画面に映る自分の疲れた顔を見ると、素直にストレスを持ち帰って寝るのは明日にも響きそうだと思うほど酷い顔をしている。
そうだ、それならもう、帰る前に一杯だけ引っ掻けようかな、と閃いて、それから挨拶もそこそこに仕事場を後にした。
閃いた、と言っても行く場所は決まっている。
会社の近くにある、和風の居酒屋。けれど少し治安の悪い下品な歓楽街にある為に、同じ会社の人は近付かない。
確かにギラギラとした水商売の看板やネオンが通りを埋めているが、その店はその通りから少し離れたところにあり、店の扉を開けて店内に入ってしまえば外の騒がしさと完全にシャットアウト出来る。
それに、店の雰囲気も穏やかで、少し値の張る料理を出すこのお店は人の入りが少なく、何時来ても人がまばらなために、騒がしさから無縁だ。
そんな、世間から隔離された穏やかな空間は心地良くて、俺にとってここの居酒屋に通うのは月に一度の楽しみになっていた。
…料理は美味しいのだけれど高くてそう頻繁に通えないところだけがある意味欠点ではあるけれど。
「あら、高橋さん。今月は早いんですね。」
店の扉を開けてすぐに、店員さんに出迎えられる。そして、俺を出迎えに来てくれたその言葉に、俺は笑顔で軽く頭を下げる。
この人は佐藤さん。月に一度しか来ない俺の事を覚えてくれている優しい人だ。紺色の従業員の制服である着物が似合う、黒い髪を後ろで纏めた純朴そうなこの店の看板娘である。
「今日はちょっと不幸続きで、ちょっと癒されたくて」
「そうなんですか?でもうちの店がそう言って貰えてえっと、なんかその…」
「どうしたんですか?」
モゴモゴと口ごもる佐藤さんに続きを促せば、高橋さんの癒しになれてるの、なんだか幸せな気持ちになります。と言われ、くすぐったい気持ちになる。そして、同時にそのやり取りで重かった心が軽くなるのを感じた。
「佐藤さんって不思議な魅力がありますよね。俺、なんか癒されました」
思った事をそのまま口にすれば、佐藤さんは顔を手の平で覆って、お茶お持ちしますね、と厨房へと駆けて行った。
その間に適当に開いた席に着けば、すぐさまお茶とあたたかいおしぼりを持ってきてくれた。
そのおしぼりの温もりに心も温まって、やってきたお通しに口を付ける。それから、財布の許す限り美味しい食べ物を食べようと、いつもは注文しない食べ物も頼みつつ、いつも通りの酒を飲む。
これだけの事で幸せになれるなんて我ながら単純だと思いつつも、心はふわふわと軽くなる。
そして食べ終わり、会計をお願いしようとすれば、それより先に佐藤さんが気付いて温かいお茶と新しいおしぼりを出してくれた。
「今日はたくさん食べてましたね」
「どれも美味しかったです。あ、でも特に魚の煮物。あれいつも飲むお酒と合っててすごく美味しかったよ」
お茶を飲みながらそう言えば、佐藤さんは頬を少し赤くして「それはよかったです」と微笑んだ。
そんな他愛のない会話をいくつかして、お腹も話も落ち着いた頃合いを見計らってお会計をお願いした。
「よかったらまた来て下さいね」
そう言ってお釣りを渡されて、今月また来るかも、と漏らせば彼女はぜひ、と満面の笑みを浮かべる。
それから、お店を後にして家に帰るために駅へと歩いて電車に乗ろうと思ったが、店の外はそうするのが勿体無い程、アルコールで火照った身体に丁度いい温度で夜風が吹いている。
あまりに心地が良いので、酔いを醒ます為だから、と自分自身に言い訳をして、歓楽街を出てすぐの所にある公園へと足を運んでいた。
「はぁ……最高だ。」
さっきまでの落ち込み具合はどこへやら。
酒の力を借りてすっかりと上機嫌になった俺は、ニコニコと満面の笑みを浮かべて公園のベンチで横になる。そうすると丁度空を見上げる体勢になって、吸い込まれるような黒をじっと見つめた。夜空は歓楽街の近くだという事もあって明るすぎる照明で星はほとんど見えないが、月は雲に隠れず綺麗に見えているので良しとする。
いい景色にちょうど良い夜風。このまま眠ってしまいそうだ、と目を閉じて夢見心地に鼻歌を歌っていると、二曲目に入ろうとしたところで影がさして、月が隠れてしまったのかと目を開けた。
するとそこには自分を覗き込む人影があり、青い瞳と目が合った。
驚いて、は?と声を漏らせば、ひらひらと手が振られる。
「隣、いい?コンビニのでよければお酒もあるよ」
目がバッチリと合った後、青い目をした人影はそう言って、俺の目の前によく見かけるコンビニのマークが印刷されたビニール袋を差し出した。その袋には、女の子が好きそうな甘いお酒の缶のパッケージと缶ビールらしきものが薄っすらと見える。
取り敢えず声の主の正体が知りたくて、誰だと顔を上げると見目麗しい金髪の女性が、そこにいた。
キラキラ、光を反射するブロンドは、本当に綺麗で目が釘付けになる。そんな髪に合わせたかのような、透明で艶々とした肌は陶器のようで、先程合った青い瞳は夜の街灯を精一杯集めた目は今の夜空なんかに負けないくらいキラキラと光っており、まるで宝石のようだ。
「もしかして嫌だった?」
子供の頃からの夢だった。金髪の綺麗な髪をした女性を恋人にする事。そんな、自分の見ていた夢で思い描いた理想の女性像にバッチリと合わせてきたかのような女性の突然の登場に思わず呆けて、けれど目の前の彼女その言葉にハッとして首を横に振った。
取り敢えず、さっきの言葉の返答として身体を起こし隣の席を空けると、彼女は嬉しそうに笑って俺の横に腰掛けた。それから、ビールでいいかな?と言われて頷けば、手に冷たい缶ビールが渡される。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「君、綺麗だね。客引き?それとも休憩中?」
カラカラと乾いて動こうとしない舌を動かしてなんとか言葉を発する。ここら辺にいる華やかな服装をした美女は大体あの歓楽街のお店の女の子である事が多い。けれど彼女は首を横に振って、違うよ、と言った。落ち着いたエメラルドの、少し露出度が高い服を着ていた為、てっきりそうだと思っていたが違ったらしい。
そして、違うとなると先の質問はとても失礼な事だったと気付いて、慌てて謝った。
「ああごめん。失礼だった。」
「ここら辺でこんな格好してる私が悪いんだもん。いいよいいよ。」
本当に気にしてなさそうな声音で言われてホッと胸を撫で下ろす。
「でも、なんでこんなところに?」
「ちょっと用事あったの。」
秘密だよ?と、瑞々しい唇の前に人指し指を立てながらそう言われて勿論、という意味もこめて首を激しく縦に振る。
そんな俺の姿が面白かったのか、目を細めて子供のような無邪気な笑みを浮かべる彼女の目を見て、本当に綺麗だなあと間の抜けた顔をしそうになって思わず咳払いをすれば、彼女は大丈夫?と先程と一転して
心配そうな表情を浮かべた。
「だ、大丈夫!あああそう言えば。突然だけどさ、その目。宝石みたいだねって言われたこと無い?」
「本当に突然だね」
俺の言葉にふふふっと笑って、彼女は袋からチューハイを出してプルタブを開ける。それから、チューハイで唇を濡らしながら彼女は君、かなり酔ってるでしょ?と言ってまた笑った。
「あるよ。それはもうすごくたくさん。…ダイヤを並べて私にその言葉を投げ掛けた人もいたくらい」
「ああ、なら。俺なんかとお話してないでその人の方に行った方がいいんじゃない?そのダイヤ貰えなくなっちゃうよ?」
「ううん、もう貰って別れた後に売っちゃった。」
「じゃあ今、誰とも付き合っていないんだ」
「その台詞、下心満載っぽい。」
「そう言う意味じゃなかったんだけど…いや、そうかも」
夢のような出来事にふわふわとした頭は、楽しさだけを追い求めて後の事は考えない。俺の脳はとっくに、冷静な部分を隅っこの方に追いやって、本能がでかい態度で脳の中に居座っていた。そうして口を勝手に動かし、普段言わないような言葉をペラペラと喋る俺がそこにいた。
「だって俺、金髪の女の子が好きなんだ」
「じゃあ私はどう?かなりいい線いってる?」
「だいぶ好き。」
そう言えば、彼女は嬉しい、とはにかむ。
俺はその笑顔に見惚れてずっと彼女を見ていたが、彼女がチューハイの缶を口に付けて傾けた所でやっと持っていたビールを開けてすらいない事に気が付き、慌ててプルタブを開ける。すると、彼女はそれと同時に席をたって俺の目の前に立った。
「あのね私、これから行かなきゃ行けない所があるんだ」
「さっき言ってた用事ってやつ?」
「うん。それの続きだよ」
「続き?」
「詳しくは言えないけど、準備が出来たから舞踏会に向かうって感じかな」
「シンデレラみたいだね。俺は王子って柄じゃないけど」
「そんな事ないよ王子様。とは言ってもシンデレラにしては少し時間が遅すぎるけど」
「ああ。じゃあ帰っちゃうって」
「一緒に行くしかないよね?」
こと?と、そう続くはずだった言葉は目の前の彼女の食い気味の言葉に消される。
「どこに?」
「言わなきゃダメ?」
ふふっと悪戯っぽく笑って、座っている俺を立たせるように手を取り、引っ張る。
「一緒に来てくれる?」
「場所によるけど…どこかな…?風俗?キャバ?」
「着いてからのお楽しみ」
女性にエスコートさせるなんて、男としてどうなんだろう?と呟けば、手を引いていた目の前の彼女はまた、ふふっと笑う。
その笑顔の可愛らしさに頬を緩めて、こんなに可愛くて綺麗な子相手なら、騙されたとしても、どれだけ金を払って散財させられても構わないなぁ、と思いつつ、俺は早くビールの中身を空っぽにするべく、缶に口を付ける事にした。
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修正入れました