第百三十六話 目覚めへのトリガー⑥
目を覚ますと、辺りはすっかり暗くなっていた。
どうやらあれから痛みで気絶していたようだった。背中を触ってみると筋のように瘡蓋が出来ている。恐らく鞭で打たれて皮が破けてしまったのだろう。跡が残らなければいいけれど。
ちょっとそんな楽観的なことを考えながらゆっくりと立ち上がる。気絶する前に吐いたモノも乾いている。生憎それ程匂いは気にならなかったのが不幸中の幸いだったかもしれない。これで匂いが酷かったら溜まったものじゃなかった。
そして扉の横にあるスペースに銀のトレーが置いてあることに気付いた。
近づいてみると、そこには幾つかに区切られたトレーのスペース一つ一つに赤や緑、青など様々な色の何かがペースト状になったものが満たされていた。はっきり言ってそれだけを見れば食欲は減退されるだろう。
まあ、出されたものだ。毒も入っていないだろうし、とにかく食べないことには何も始まらない。そう思った僕はトレーに置かれているスプーンを手に取り、赤のペーストを掬った。
そしてそれを口に放り込む。
「……不味い」
想像通りの味だった。ペーストは舌にざらついた感触を残す。まずそれだけでも不快だというのに、味はまったくしない。何というか、栄養を取るためだけのもののようにも思える。
まさかリュージュたちもこれを食べているとは思えないが――仮にそうだとしたら味覚がどうなっているのだろうか。考えたくもない。
一口食べて食欲がすっかり失せてしまったわけだけれど、しかしながらそれしか食料が無いので食べないわけにはいかない。
ゆっくりと、少しずつではあるが、僕はそれを食べていくのだった。
きっとメアリーたちが助けに来てくれると――そう信じながら。
食べ終わったタイミングで、今度はロマ・イルファがやってきた。
ロマ・イルファは空になったトレーを見て、つまらなそうな表情を浮かべる。
「ふうん……。食べ終わったんだ。あんなに不味いものなのに。あなたって結構ゲテモノでもいけちゃうクチなのかしら?」
「食べたかったから食べているわけじゃねえよ」
僕はそう苦言を呈したが、ロマ・イルファはただ、「そう」としか言わなかった。
ロマ・イルファが持っているものについて着目すると、彼女が持っていたのは水桶だった。文字通り、水を入れることが出来る桶だ。
「リュージュ様から聞いていると思うけれど、あなたは『魔法』を知っているはず。オリジナルフォーズを復活させるための最後のトリガーとなる鍵を、ね。けれどあなたはそれを言ってくれない。あなたが今置かれている状況を理解していないようなのよね。だから、それを解らせに来たということ」
パチン、と指を弾くと気が付けば空だったはずの水桶に並々に水が注がれていた。
瞬間移動の類だろうか――そんなことを考えていたが、
「これは特殊な水よ。私の意志を聞いてくれる、特殊な水なの。私が言えばその通りに従ってくれる。だから……」
説明を言い終わる前に、ロマ・イルファは桶に入っていた水を思いきり僕にぶちまけた。
何をするんだ――と言おうとしたが、水が口から離れずにただの泡と化してしまった。
いや、それだけじゃない。目も、鼻も、まるで顔全体に水がへばりついているような感覚。
「……解ったかしら? 私の能力、その真の力を」
解ったが、何も言うことが出来ない。それどころか呼吸をすることも困難な状況に置かれている。これでは何も反応することが出来ない。
我慢しようとしても、水がゆっくりと体内に入っていく。
「ほんとうはその水であなたの身体に侵入して支配してしまうという考えもあったけれど、身体と精神の支配はまったく別物になるからね、そう簡単に出来る話ではないし。だから、結局こういう原始的なやり方になっちゃったというわけ」
溜息を吐くロマ・イルファ。
まるでお気に入りの玩具を取り上げられた子供のような落ち込み具合だ。
「だから、だからね。……辛いでしょう? 空気を吸えなくて辛いでしょう? 人間って、酸素を取り込まないと脳の機能が低下して死んでしまうからね。とても脆い生き物だからね。だから、このままだとあなたは死んでしまう。それはとっても嫌な話よね?」
ロマ・イルファは小走りに僕の横に佇む。そしてそこから僕を見つめて、笑みを浮かべて、
「『魔法』を言えば解放してあげるわ。だから、言う意志があるならば頷きなさい。それ以外の反応は意志が無いと認めるから慎重にね?」
魔法。
その言葉をロマ・イルファに聞き返すほど僕も馬鹿ではない。
つまり、ロマ・イルファはここで魔法を言う意志があるなら頷けと言っているのだ。そんなこと、出来るはずがない。かつて世界を滅ぼすほどの力を誇ったオリジナルフォーズ。それを復活させるとどうなるか――はっきり言って、火を見るよりも明らかだ。
だから僕は頷かずに、そのままロマ・イルファを睨み付けた。
「ふうん……。つまんないなあ」
そう言うとロマ・イルファは再び空になった水桶に水を蓄えて、それをまた僕にぶちまけた。
「正直、男の子にこれをするのは非常に嫌な話ではあるのだけれど」
そう言って、ロマ・イルファは笑みを浮かべたまま、桶をひっくり返して椅子代わりにし、腰かけた。
「浸透圧って知っているかしら? 赤血球を真水に入れると、浸透圧に耐え切れなくなって溶血という現象に陥るらしいのだけれど、どういう状況になるのかしら? 科学者はマウスでは研究しているらしいけれど、まだ人間では研究したことがないって言っていたし。ちょっと面白いとは思わない?」
肌に水が纏わりつく。そしてその水はゆっくりと、『僕の身体の中に』入っていく感覚が走っていく。
それがロマ・イルファのいう話なのだろう。
身体の穴という穴から水を入れて、そして赤血球を真水に浸す。それにより溶血という現象を起こす。
考えただけで、身の毛がよだつ。
「……さあ、どれくらいあなたは耐えきれるかしら?」
ロマ・イルファの笑顔は、悪魔の笑顔にも似ていた。




