第百十八話 知恵の木⑤
「大丈夫だ、サリーくん。それにしても、君にはあまり迷惑をかけないつもりだったのだが……、大変申し訳なかったな」
そう言ってフィールズは項垂れる。サリーについて謝罪をしていたが、当の彼女はあまりそのような感情を抱いていないようだった。
「いいえ、別にそのようなことは……。私も、リュージュのことはどう考えてもおかしいと思っていました。しかし、今の研究員は大半が研究さえ出来ればいいと考えています。リュージュの傀儡と言ってもおかしくありません。誰もリュージュのことに『おかしい』と言う人は居ません。誰もが、リュージュのことは正しいと思って行動しています。いや、それ以上かもしれません。もしかしたら研究員の殆どはそこまで考えていないのかも……」
「それは僕も考えていた」
よろけつつも立ち上がるフィールズ。
倒れそうになった彼を倒れないように何とか彼女は肩を支えた。
「無理しないでください、フィールズさん! もう、これ以上は……」
声が、下水道に反響する。
どこに繋がっているかどうかも解らない、魔境と言ってもおかしくない場所。
左右に伸びている下水道だったが、右にゆっくりと水の流れがある以上は暫く進むと明かりが無いようで先が見えなくなっている。
その先に何があるのかはっきりとしていないが、この先は外に繋がっているということだけは知っていた。
「……この下水道は、ほんとうに警備が手薄なのかね?」
「ええ、それは確認しております。この下水道を通って海を渡るルートが一番安全にこの子を逃がす方法であると言えるでしょう」
「……解った。君が言うのであるならば、真実なのだろう」
フィールズは頷く。
「しかし、残念なことが一点だけあります」
サリーの言葉を聞いて、フィールズは首を傾げる。
「何だね、言ってみてくれたまえ」
「樽なのですが……二つしか用意出来ませんでした。つまり、どちらかが残らなければなりません」
それを聞いて、フィールズは目を瞑り、小さく溜息を吐いた。
「……そうか」
そして、それを見ていたメアリーは薄々何が起きるのか察しがついていた。
「フィールズさん、娘さんと逃げてください」
「サリーくん。君が逃げるんだ」
二人の言葉は、ほぼ同時に発せられた。
そして、暫しの沈黙が生まれた。
「……え?」
沈黙を破ったのは、サリーのほうだった。
対してフィールズは照れているのか頭を掻きながら、
「どうやらお互いに考えが交差してしまったようだな。残念なことではあるかもしれないが、これが一番現実味のある可能性ではあった。推測できていなかったわけでは無かったからな」
「……でも、フィールズさん。あなたはこの子の父親じゃないですか! それを、そんな……」
「父親だからこそ、だよ」
涙を流しているサリーの頭を優しく撫でるフィールズ。
フィールズは慈愛に満ちた表情でサリーを見つめていた。
「父親だからこそ、僕はメアリーを守らないと言えない。けれど、メアリーと僕が一緒に居ると狙われる可能性が高い。現に一度はリュージュを撒いたけれど、次は厳しいだろうからね。そのためにも、一度は時間を稼ぐ必要がある。解ってくれるかい、サリーくん」
「じゃあ、メアリーちゃんは……彼女は誰が守ればいいのですか!」
「簡単だよ、サリーくん。君が守ればいい。いや、守ってくれないか、メアリーのことを」
え? とサリーは顔を上げる。
そしてフィールズはサリーと互いの唇を重ねた。
「……もし、僕が追いつくことがあるのなら、また会おう」
そうして、フィールズはメアリーの入った樽の蓋を閉める。
サリーも踏ん切りがついたのか、自ら残っていた樽に入っていった。
蓋を閉めるとき、サリーは言った。
「絶対に、絶対に死なないでくださいね……!」
「ああ、約束するよ。だから、泣かないでくれ。また会えるのだから」
そうして、サリーの入った樽の蓋を閉めて、二つの樽をゆっくりと押していく。
水に浮いているからか簡単に動き出した。そしてあとは水の流れに従って、ゆっくりと動き出していく。
暗黒の中に二つの樽が消えていったのを確認して、フィールズは溜息を吐いた。
「……嘘は吐かないっていう性分だったんだけれどなあ……」
それを聞いたメアリーは、これから何が起こるのかを充分に理解していた。
再度ノイズが空間全体に走り、そして空間が移動した。
次にメアリーが到着したのは、広い部屋だった。質素な部屋に見えたが、立派な椅子があるところを見ると謁見の間に近い空間なのかもしれない。
そして、その場所にリュージュとフィールズが対面していた。
「まさか、逃げずにのこのこと戻ってくるとはね。……あら、けれど、メアリーが見当たらないわね。メアリーはどこに逃がしたのかしら? それとも死んじゃった?」
「メアリーのことについて、僕が言うとでも思っているのか?」
それを聞いたリュージュは溜息を吐き、椅子から立ち上がる。
「……何というか、まさかあなたがこんな人間だとは知らなかったわ。フィールズ」
リュージュは持っていた錫杖を床に勢いよく置いた。
それを一種の会話の切れ目であるかのように、リュージュは一歩近付いていく。
「それにしても、か……。まあ、君にとって僕という人間がどう映っていたのかは解らない。ほんとうに愛していたのかもしれないし、僕も道具の一つとして認識していたのかもしれない。今となっては知る由もないわけだが」
白衣のポケットに突っ込んでいた手を、ポケットから抜く。
そして彼はずれていた眼鏡の位置を元に戻すと、不敵な笑みを浮かべた。




