二
「いってきます」
「いってらっしゃい。遅くていいんだからね!」
「逆に早く帰ってきて洗濯物でもたたんどくから」
「あ、それ助かる」
母さんに見送られながら、学校へ向かって歩き出す七時半。しばらく歩いてからふと振り返ると、反対方向に向かいながら同じように振り向いた父さんと、目が合った。
「吏生! 勉強がんばれよ~!」
「はいはい、そっちこそ仕事がんばってくれよ」
ぶんぶんと手を振る父さんに手を振り返して、また正面を向く。
「あら吏生くん、いってらっしゃい」
「おはようございます、いってきます」
いつもこの時間に犬の散歩をしている近所のおばさんにも挨拶。
「おはよう、おまえもいい子で過ごせよ~」
犬にも挨拶。
「あらっ、吏生くんに言われたくないわよね?」
「……おばさん、それ俺がいい子じゃないってことですか」
「わんっ」
「肯定したのか? 今、俺がいい子じゃないってことを肯定したのか? おい犬コラ」
「こらこら、犬相手に本気にならないの。それじゃあね、吏生くん」
おばさんと別れて、再び通学路を歩く。
「兄ちゃん、おはよう!」
「おう、おはよう! 慌てると転ぶぞ~?」
「転ばないもんね~!」
「転ぶわけないもんね~!」
生意気な小学生のガキどもとすれ違う。ただし俺にもあんな頃があったんだと思うと、ガキどもという言い方も失礼か。これからは脳内でも子供たちと呼ぼう。
これも日常。いつものこと。ずっと、そんなに変わらないはずの、毎日。
『中学の頃は、完全に反抗期だったんだよな』
『今は違うのか』
『反抗がガキくさい事に気付いた』
『大人か!』
これはまた、学校で学友たちと話したこと。
『物心着いた頃から、父さんに修行させられて』
『修行って、何の?』
『武道? っていうのかな。空手よりはカンフーに近かったかもしれない』
『……おまえの親父さん、何者?』
『俺も知りたいな、そこは』
父さんと母さんの過去を、俺はよく知らない。本人たちから昔のことを聞いたことはあるが、全部どこか胡散臭い感じがする。二人には兄弟もいないし、両親もいないし、親族と呼べるものは一人もいない。昔からの友人っていうのも、聞いたことがない。
『さすがに中学に入ると、父さんと一緒っていうのが恥ずかしくて』
『修行はいいんだ? 修行は恥ずかしくないんだ?』
『いや、だってあれはあれだから、生活の一部だから』
『いやいや、おかしいから、それはおかしいから』
そんな話をしながら、中学の頃を思い出してみる。そうだ、ちょうど反抗期に入って、父さんと一緒に修行したくないとか言って、時間帯をずらすようになったんだ。
『だから最近は放課後に屋上で修行を』
『してんだ!? 屋上で修行してんだ、おまえ!?』
『何言ってんだ、当たり前だろ? 継続は力なり、だ』
『普通の高校生は生活の一部に『修行』なんて入れねえよ!』
そこで初めて、俺は『修行』という日課の異常さに気付いたわけだが。
『でもまあ、そういえばおまえ体育の柔道の時、一人だけ競技が違うもんな』
『そういや構えがまずカンフーっぽいもんな』
『そんで先生にいろいろ突っ込まれるんだよね』
『仕方ないだろ、体に染み付いてんだから』
そんな話をして盛り上がったのが、高二の最初の頃。そろそろ秋を迎える現在、俺と彼ら三人はいつもつるんでいるような気がする。
「そういや、最近父さんと手合わせしてないな……」
ぽつり、不意に思ったことが口から出た。
父さんは、口にこそ出さないものの寂しがり屋の部分があって、俺が中学の頃に『もう父さんと修行はしない!』と宣言した時、無言のままめちゃくちゃ泣いていたのを覚えている。まあ、母さんが慰めてたけど。
「……今週末は、久し振りに手合わせ願ってみるか」
そう心に決めて、喜ぶだろう父さんの反応を想像して、思わず笑みがこぼれた。
「にゃあ」
「ん?」
不意に、どこからか猫の鳴き声が聞こえる。視線を上げてみると、ブロック塀の上にいる黒猫と目が合った。
「縁起悪いな……」
朝食の嫌いなものオンパレードと言い、最下位の占いと言い、黒猫と言い……。今日は何だ、悪いことでも起きるのか。それとも反動でいいことが起きるのか。
「あ」
何がきっかけかわからないが、黒猫が突然駆け出した。反射的にそれを追いかけようとした途端、ぐらりと体が揺れる。どくりと、心臓が嫌な音を立てた。
転ぶ? いや、転ぶなんてそんな、マヌケな感覚じゃない。
足場がない、体を支える場所がない、掴むものがない、すがるものが、何も、ない。
「落ち」
る。そんな短い言葉を言い切ることも出来ないまま、俺の身体は急速に落下を始めた。自由落下、重力加速度。そんなどうでもいい言葉が頭をよぎった直後、ぼふん、という音が俺を受け止めた。落下時間、およそ三秒。短かった。
「あれ」
いつの間にか閉じていた目を開けると、天にまで届かんばかりの大きな樹が見えた。こんな巨木、通学路にあったっけ。そんなことを思いながら起き上がると、周りにも同じくらい大きな樹が大量に生えていた。
「……どこだ、ここ」
うまく働かない頭で、周囲の状況を読み取ろうと試みる。
「……森?」
巨大な樹が立ち並ぶ、森。通学路には明らかになかったはずの景色だ。
「えっと……これはいわゆる、神隠しというやつでは」
状況を理解するほどに、理解できないことが増えていく。何で通学路からいきなり森に来るんだ、理解できない。そして何で俺のテンションがこんなに上がっているんだ、理解できない。
「とにかく、とにかく落ち着け、俺」
目を閉じて、深呼吸を数回。それからもう一度そっと目を開けると、木の陰からこちらを覗く黒い虎と目が合った。……虎?
「ガルルルル……」
狂暴そうな、明らかな肉食獣だ。ヤバイ、俺の命がヤバイ!
「ガウッ!」
「ひッ!」
虎が地面を蹴り、小さく出た悲鳴、動けない。怖い、怖い、死にたくない!
そんな思いの後ろで、ああ、デカイ口だな……なんて考えも一瞬よぎった。
その一瞬が永遠にも思えて、周りも俺自身さえも、スローモーションにすら見えた。
そのスローモーションに思えた一瞬の間に、いろいろと思ったことがある。
例えば、俺の最後の晩餐が嫌いなものオンパレードってどういうことだよ、とか。
例えば、そういや今日って体育あったのにジャージ忘れたな、とか。
例えば、あれ、今日の食堂の目玉商品ってプリンじゃね? とか。
あとは今朝会った近所の方々の顔と、今朝会えなかった学友たちの顔。
最後に、両親の顔。
大概、どうでもいいことだった。
……俺の人生って。