三
「俺はただ、あいつと一緒にいたかっただけなんだ」
やがて泣き止んだのか、フェンリルが俺に抱きついた態勢のまま話し始めた。
「ずっと独りだった。『サビシイ』なんて知らないくらい、独りだった」
「うん」
「森のやつらはみんな、俺の姿を見ただけで避けていく。怯えて、恐れて、逃げる」
「……うん」
フェンリルはまだ時々しゃくりあげながら、語る。
「あの日、エルドに会った。あいつは俺を見ても怖がらずに、話しかけてくれた」
それを聞いて、ああやっぱりエルドは母さんのことなんだと悟った。母さんは、初対面の人でも、普通の人は怯えるような大きな動物でも、臆することなんてなかった。
「フェンリルって名前は、エルドが俺を呼ぶためにつけた名前なんだ。俺が、俺を俺だと認識するために、エルドがくれたんだ。……だから、この名前は好きだ」
「そうか」
だから、あいつはあんなにも誇らしげに、自分の名前を言ったのか。
「それからはずっと二人で、いつでも一緒で、どこに行くにも一緒で、なのに」
俺の胸倉をつかむフェンリルの手に、力がこもる。
「あいつらは、あの白いやつらは、俺からエルドを奪った」
レスティオールたちが、母さんを保護した時の話か。
「それからどのくらいか経った後、エルドは時々俺に会いに来るようになったけど……俺は、本当はずっとエルドと一緒がよかった」
「……うん」
「だから俺は、あの白いやつらが嫌いだ」
フェンリルはまだ顔を上げない。俺の胸倉を掴む手は、震えているようにも思えた。
「俺はエルドが『タイセツ』だったんだ。エルドも俺を『タイセツ』だって言ってくれたんだ。……なのに、エルドはあの男のほうが『タイセツ』だったんだ」
ああ、そういえば。母さんは樹の中で死に掛けていた父さんを助けて、その罪で森を追われたんだっけ。
「だから俺は、あの男が嫌いだ。俺を独りにしたエルドも、嫌いだ」
「うん」
「だけど」
そこでようやく、フェンリルは俺の胸にうずめていた顔を上げた。
「だけど」
フェンリルは俯いたままで、表情はよく見えない。けれど、その目からひとつ、涙が落ちたのは見えた。
「俺に『サビシイ』とか『ウレシイ』を教えてくれたエルドは、好きだ」
ぽたり、ぽたり、フェンリルの目から涙が落ちては、俺の服にしみこんでいく。
「ずっと俺と一緒にいてくれたエルドは、好きだ。俺のことを『タイセツ』だって、『トモダチ』だって、そう言ってくれたエルドは、好きだ」
「うん」
「忘れたことなんてない。エルドの顔を思い出せなくなっても、エルドの声を思い出せなくなっても、エルドのニオイを忘れたことなんて、一度もない」
「……そうか」
そして、やっとフェンリルと目が合った。俺と同じ顔で泣いているフェンリルを見ていたら、俺も泣いているんじゃないかって、錯覚しそうになった。
「なあ、エルドは、あの男と一緒で『シアワセ』なのか?」
真っ直ぐに俺を見て、フェンリルはそう言った。母さんが幸せかどうか、なんて。
「……当たり前だろ。だから俺がいるんだ」
母さんが幸せだから、母さんが父さんといて幸せだったから、俺が生まれたんだ。真っ直ぐにフェンリルを見つめ返したら、フェンリルはまた俺の胸に顔をうずめた。
「エルドのバカ。エルドのアホ。エルドの嘘つき」
今度は母さんの悪口を言い出した。
「エルドと一緒にいたくてたくさん修行したのに、意味ないじゃん。せっかく人間の姿になれるようにまでなったのに、何も意味ないじゃん」
ああ、人型になるために結構頑張ったのか。
「何、ちゃっかり子供とか作っちゃってんだよ。エルドのバカヤロウ」
小さく息をつく。何だ、フェンリルはただ単純に、母さんが好きなだけじゃないか。誰だよ、憎いだの何だのって言ったのは。……あ、フェンリル本人か。
「なあ、フェンリル」
「……なんだよ」
声をかけたら、ちゃんと返事が返ってきた。
「俺じゃ母さんの代わりになれないってことくらい、わかってはいるけどさ」
そう言って、俺は未だに自分の胸の上にあるフェンリルの頭を、ぐしゃぐしゃに撫でてやった。
「ケンカ相手でも、話し相手でも、いつでもなってやるから」
おまえがそれを望むなら、いつだって決闘してやるし、いつだってくだらない話も聞いてやる。一緒に木登りもするし、修行だって付き合ってやろうじゃねえか。
「だからさ」
手を放すと、フェンリルが頭を上げた。目が合った。
「あの白い建物に来いよ。俺と一緒に」
「何でだよ」
むっと眉を寄せるフェンリル。まあ、憎いと言ったほどだから、あまりいい反応をするとは思わなかったけれど。
でも。
「おまえがずっと一緒にいてくれたほうが、たくさんケンカできるだろ?」
そう言って笑ったら、フェンリルは少しだけ目を丸くして、それからまた俺の胸に突っ伏した。肩が震えている理由が、泣いているからなのか、笑っているからなのか、俺には判別できないが。
「ばあか」
笑っていてくれたら、いいのに。