三
これは少し前、男の人がまだ樹に寄りかかっていた時の出来事。
命の終わりを悟っていたはずの男の人は、不意に、すぐ側に人の気配を感じました。
霞む目を開けてみると、白い髪の女の人が、男の人の顔を覗き込んでいます。
『やあ、青年。元気かい?』
『元気に見えたら、あんたの目は節穴だ』
『ははは、違いないね』
女の人はそう言って楽しそうに笑い、男の人の向かいに腰を下ろしました。
『あんたは……死神、か?』
『死神か、言い得て妙。だが違うよ、私は神なんて大それたものじゃない』
男の人の言葉に、女の人は楽しそうに返しました。
『迎えに来たんだよ、君を』
『どこから? ……地獄とか言ったら、追い返す』
『まさか。私は世界の外から来たんだ』
女の人はにこりと笑うと、空を指差して見せた。
『世界の外は、他のいろんな世界と繋がってる。君の生きられる世界もあるよ』
『例えば?』
『黒い髪の人間ばっかりの世界とか』
『そりゃあ、いいな』
男の人は、また少しずつ目が霞んでいくのを感じました。
『でも、もう、無理だろ。俺はもう、どこにも行けないよ』
男の人がそう言うと、女の人は小さく首を振りました。
『そうでもない』
女の人はそう言って、男の人の目を見ました。
『私も君と同じように、黒い髪を理由に殺されそうになったことがある』
『……あんたの髪は、白いぞ』
『これは、今住んでいる場所の影響だよ。元は君と同じくらい、黒い髪だった』
女の人は、少しだけ懐かしそうに目を細めました。
『それでも私は、こうして生きてる。真っ白な髪になって、まだちゃんと生きてる。
それは、髪が黒かった私でも、生きていける場所がそこにあったからだ』
そして女の人は、男の人に向かってふっと微笑んで見せました。
『君の生きられる世界もあるよ』
もう一度、さっきと同じ言葉を繰り返して、女の人は立ち上がりました。
それから女の人は、男の人のほうへそっと手を差し伸べました。
『一緒に行こう』
その手を見ながら、男の人は思いました。
――本当に、自分の生きられる世界があるなら、行きたい。
誰よりも自由に、どこまでも穏やかに。そんな風に生きられる世界へ。
男の人が、女の人の手を掴みました。
女の人はその手を握り返して、嬉しそうに微笑みました。
それは、黒い髪を理由に虐げられた二人の、奇跡とも呼べる出会いでした。