三
懐かしい夢を見た。
いや、懐かしいなんて言っても、それはたった数日前の日常のこと。
『吏生、朝だよ、起きなさい』
聞き慣れた母さんの声で目を開ければ、見慣れた自分の部屋の天井。起き上がって辺りを見回せば、やっぱりそこは見慣れた俺の部屋。
「母さん……?」
ベッドから降りて、部屋を出る。カタカナで『リショウ』と書かれたプレートが、ドアを閉めた拍子にカタカタと鳴る。その音に振り向いて部屋のドアを見ると、霞むように消えていった。
階段を降りると、ダイニングに並ぶ朝食。トーストに、スクランブルエッグに、ソーセージ、グリーンサラダ。それと、牛乳。
「おはよう、母さん」
『おはよう、吏生』
毎朝のやりとりをしてからリビングを見ると、ソファに座って一心不乱に新聞を読んでいると見せかけて、すやすやと眠っている父さんの姿が見えた。ため息ひとつ、俺はリビングにいる父さんに近づいて、肩をゆすった。
「父さん、朝飯」
『んあ、おう、吏生。おはよう』
「うん、おはよう」
父さんが起きたのを確認してから、ダイニングへ向かう。父さんは欠伸をひとつしてから、新聞を置いて俺に続いた。
「今日の朝飯は洋食なんだな。珍しい」
『そうだね。気分』
「気分かよ」
母さんは相変わらずマイペースだ。
『それに、吏生は洋食の方が好きでしょう』
「ああ、そっか……うん」
笑顔の母さんに頷いてから、目の前の朝食に手を合わせた。
「いただきます」
『どうぞ』
朝食の後。部屋へ戻ろうとして、階段が消えていることに気付いた。
『吏生、そろそろ出る時間だよ』
「あ、うん」
母さんに言われるまま、着の身着のまま、カバンも持たずに玄関へ向かった。
『お、もう出る時間か?』
「うん」
途中で声をかけてきた父さんに頷いて、玄関で靴を履く。
「じゃあ、いってきます」
『うん、いってらっしゃい』
『気をつけろよ』
振り返れば、母さんと父さんが二人で、俺に向かって笑っていた。それに笑顔を返してから、玄関を出る。少しだけ歩いて振り返ると、家が忽然と消えていた。
それから、いつも通りの道を歩く。
途中で、犬を連れたおばさんに会った。いつも通りに挨拶をして、いつも通りに犬を撫でて、別れて歩き出す。振り向いたら、おばさんの背中はもう見えなかった。
途中で、元気に走る小学生二人に会った。いつも通りに挨拶をして、転ぶなよと注意して、転ばないと断言されて、そのまますれ違う。振り向いたら、誰もいなかった。
『おはよう、吏生』
『おっす、吏生』
『よー、吏生』
「おはよう」
教室に着けば、いつも通りの学友たち。自分の席には目もくれずに、学友たちのたむろしている教室の隅へ直行した。
「一時間目、何だっけ」
『数学だよ』
「げ、寝てようかな」
数学は嫌いだ。
『ところで吏生、職員室は行かないの? 日直じゃなかった?』
「ああ、そっか。じゃあ行ってくる」
『いってらー』
『あ、ついでに自販機でフルーツオレ』
「てめえで買え」
いつも通りのやりとりをして、教室を出る。教室の扉を閉めてから振り向くと、もうそこに扉はなかった。
「……ああ、そういうことかよ」
目の前にいるのは、黒猫。あの日、俺をあの日常から切り離した、黒猫。申し訳なさそうな顔で俺を見て、耳も尻尾も垂れ下がっている、黒猫。
「ありがとな。あいつらに、両親に、会えて嬉しかった」
その場にしゃがんで、黒猫の頭を何度か撫でてやってから、立ち上がる。
「帰ろうぜ、シュバルツ」
そう言うと、にゃあ、と小さな鳴き声がした。次の瞬間には、校舎も消えていた。
目が覚めたら、相変わらず白い天井だった。ひとつ欠伸をして、目をこすりながら起き上がる。
「……ん?」
ふと、指に湿り気を感じた。目を開けて指を見ると、濡れている。……濡れている?
「ああ……そっか」
もう一度、目元に手をやってみる。やっぱり濡れている。どうやら俺は、さっきの夢で泣いたらしい。
「ガキかっつうの……」
自分で、自分に呆れた。




