二
フェンリルの話を始める前にと、レスティオールは俺にある書類を提示した。そこに貼り付けられていた顔写真に、思わず目を見開く。
「これって……母さん?」
「そうだ。おまえの母親、シロサキ・ユイリ。この森では『エルディリカ』とつけた。ちなみにこれは、エルディリカが十七歳の頃の写真だが」
「マジか」
今の俺と同じ年頃の母さんの写真。えっと、確か母さんは今年で四十二歳だから、かれこれ二十五年前?
「顔、変わってない」
写真の中の母さんは、俺が最後に見た母さん……玄関で俺を見送った母さんと、ほとんど同じ顔をしていた。いや、決して写真の中の母さんが老け顔ということではなく。
「そして、リショウ」
真剣な声音で言うレスティオール。
「あの狼に『フェンリル』という名を付けたのは、エルディリカだ」
……ん?
「えええええええ!」
それはつまり、あのフェンリルに名前をつけて、
『森の主ならむしろ森の奥にある泉的なところから動かずして森の状況を察して、天を仰いで何がしかを呟いていてほしい』
という俺と全く同じ意見を持つ面白い方って、母さんだったのか!
「道理で親近感がわくわけだよな……」
すごく、納得した。
「エルディリカは、この森に来て最初にあの狼と出会い、名前をつけたそうだ。それからしばらく……俺たちがエルディリカを見つけて保護するまでの間、あいつらはいつも一緒にいたらしい」
どこか懐かしむように、レスティオールは目を細める。
「可愛かったな、あの時の狼。エルディリカを連れていかせまいと、果敢にも一匹で飛び掛ってきてさ。小さくて弱かったのに」
「あのフェンリルが小さくて弱かった頃……」
想像してみた。ものすごく可愛い子犬を想像してしまった。も、萌える!
「あの頃はエルディリカもまだ十歳くらいだったからな……幼女と子犬……」
「や、やめろ! それ以上はやめろ、萌えが止まらない!」
「……リショウは妙なところで想像力がたくましいな……つうか、母親に萌えるなよ」
ごもっともでございます。
「話を戻すが」
急に冷静になるレスティオール。何か、全てにおいて申し訳なくなってきた。
「エルディリカは故郷の世界で村をひとつ潰してきたということもあって、戦闘については心配すべき点もなく――」
「ちょっと待ってレスティオール、今ちょっと聞き捨てならないことが聞こえた気がするんだけど、え? 母さん村ひとつ潰したの?」
「ああ。生まれた村で『髪が黒い』という理由で忌み嫌われて、森の奥の洞窟で育てられて、十歳の時には両親を殺されたらしい。だからその恨みを晴らすために、両親の形見である剣と短剣の二刀流で村を潰したそうだ」
「強っ!」
ここへ来た日のレスティオールとの話で、母さんが剣術の達人であるということは聞いていたが……まさかそこまでとは。
「だから森のルールというものについて五年かけて教え込んで、それからは森に出ることも許可した。ちなみに当時、あいつは巡回部長を務めていた」
「じゃあ、アシュレイの先輩なのか」
「そうなるな。アシュレイの前任の巡回部長がエルディリカだった」
ずっと知らなかった母さんの過去。その真実。やっと母さんの『本当』に触れられた気がして、なんとなく嬉しくなった。
「それからしばらく経ったある時、エルディリカはこの森を追われることになる」
「……どうして」
「この森における『最大の禁忌』を犯したからだ」
最大の禁忌。あの母さんが、タブーを犯すなんて考えにくい。じっとレスティオールを見ていると、彼はふっと笑った。
「あいつらしいと言えば、あいつらしいんだ。……あいつらしすぎて、否定できなくて」
そう言って目を伏せて、レスティオールはぐっと唇を噛む。それから、目を伏せたまま呟くように、言った。
「樹の中の命をひとつ、救ったんだ」
それは、ひどく『よいこと』のように思えて、俺は目を瞬いた。レスティオールは顔を上げて、俺の顔を見て、苦笑を漏らした。
「信じられないよな。ある樹の中で、死に掛けていた命があって……それを救ってしまったことで、あいつはこの森から追い出されたんだ」
「何だよ、それ。何でだ?」
「それが最大の禁忌だよ。『樹の内部への過剰な干渉』」
「そんなことで……?」
「そんなこと。そうだよ、そんなことだ。そんなことが、この森では最大の禁忌なんだ」
くだらない、というように舌を打つレスティオール。
「これは、本部長が定めた『理』。この森で生きるために必要な『枷』だ」
「……『理』……『枷』……」
何だろう、すごく、気分が悪い。
「それはいい、それはこの森で生きると決めた時に諦めたことだ。……話を戻すが、その時エルディリカが救った命……名を聞くのは忘れたが、符号として『リーディリア』という名をつけたその命が、
おまえの父親、シロサキ・イツキだよ」
……はい?
「母さんが、死に掛けの父さんを、救ったと?」
「そうだ」
さっきから、信じがたいことばかりが聞こえてくる。
「……父さんは、強いはずだ」
だって、あの人が『負ける』ことなんて、俺の見ていた限り一度だってなかった。
「樹の中で何かあったんだろう。やけに重そうな手錠をされていたし、ほとんど蜂の巣だった。脱獄でもしたのか、あるいは捕まりそうになって逃げたのか……」
寒気がした。あののんびりした両親が持つ、血まみれの過去に。
「知らなかったな、家族なのに」
「まあ、そんなスプラッターな過去、子供には話せないだろ」
「スプラッターって……まあ、確かにそうかもしれないけど」
両親の過去の話を聞いてきなさいという宿題が出たとして、その話をその通りにクラスで発表などしようものなら、クラスメートどころか担任も引くわ。
『母さんは十歳で村をひとつ潰しました』
『父さんは死に掛けていたところを母さんに助けられました』
……どこのファンタジーだ。あれ、こいつの両親ってオンラインゲームの中で出会ったのかな、みたいな話になってしまう。
「そして森を追い出される日、エルディリカはフェンリルとある約束をした」
「約束?」
「いつかまた会いに来るから、それまで生きろと」
レスティオールはそう言うと、少しだけ呆れたように笑った。
「この森に帰ってこられる保証なんて、どこにもないのに」
「……そう、なのか」
「ああ。まあ、エルディリカに対する罰がどういうものかなんてことを、おまえに言う気はないがな」
レスティオールはそう言うと、はっ、と鼻で笑った。
「まあ、まとめるとこうだな。
エルディリカを奪った上、森から追い出した俺たちが憎い。未だ約束を果たさないエルディリカが憎い。エルディリカが森を追われる原因となったリーディリアが憎い。だから消したい。森の秩序がどうとかは、関係ないだろうな」
……それが理由。俺たちが、フェンリルに憎まれている理由。
「だったら、俺は」
俺は、あいつに対して、どういう態度でいるべきだろう。