一
結論。ほぼ無傷でした。
「……俺の生命力、パネェ……」
ベッドから上体を起こして、ため息をついた。
昨日、フェンリルに樹の天辺から突き落とされた俺。しかしほぼ無傷。
幸い樹がクッション代わりになって、落ちたときの衝撃が和らいだみたいだ。
ただし精神的なショックで意識を失ってしまったようだ、とのこと。
そして、アシュレイたち巡回部の方々が俺を発見し、事務所に運んでくれたらしい。
研究部医療課の方々の診察の結果、命に関わるような怪我も異常もなく。
『チッ……死んだら実験に使おうと思ったのに』
医療課長が至極つまらなそうに舌打ちをしたということを、アシュレイから聞いた。
以上、報告。
「生きててよかったァァア!」
すごく実感した。だって死んでたら俺、今ごろ恐ろしい実験の餌食になってる!
「本当に、おまえの生命力には驚かされる」
そう言って、アシュレイがため息をつく。アシュレイは現在、俺の寝ているベッドのそばに椅子を置いて座っている。
「樹の天辺近くから落とされた、と言ったよな。それで怪我が擦り傷のみとは……むしろ恐ろしいな。本当に人間なのかおまえは、いや違うだろう」
「そんなひどいこと言うなよ、人間だよ! きっとちゃんと人間だよ! たぶん!」
「だんだん自信なくしてるぞ」
いつも通りの会話。それなのにずいぶんと久し振りのような気がして、嬉しくなった。
「元はと言えば、私が森に連れ出したせいだな。すまなかった」
アシュレイの言葉に顔を上げると、彼女はわしわしと俺の頭を撫でた。
「だが、無事でよかったよ、本当に」
「アシュレイ……ありがとう」
礼を言うと、アシュレイはにっと笑って見せた。俺も、つられて笑みを浮かべた。その直後、バン、と扉の開く音がした。
「邪魔すんぜ、アシュレイ」
「ああ、ライディアスか」
突然現れたのは、短髪の男。ただしディルアートとは違い、熱血と言うか、喧嘩っ早そうな印象を受ける。
「こいつが新人じゃな。……見るからに、ヤンチャそうな顔しちょるのう」
にやり、楽しそうに笑った彼は、先程のアシュレイと同じように俺の頭を撫でた。
「俺の名前はライディアスじゃ。一応、人事部長をやっちょる」
「あ、えっと……俺は吏生です」
「知っちょる。人事部長じゃからな、人事情報は全部掌握済みじゃ」
そう言って、彼……ライディアスは俺の右手を握った。強制握手だ。
「俺のことは呼び捨てでいいし、敬語もいらん。よろしくな、リショウ」
「はい……いや、おう。よろしく、ライディアス」
俺の言葉に、ライディアスは嬉しそうに笑った。人当たりのいいやつだ。仲良くなれそうな気がすごくする。
「早速なんじゃが、リショウ」
「何だ、ライディアス」
現在、アシュレイの座っていた椅子にはライディアスが座っている。アシュレイはと言うと、仕事があると言って少し前に部屋を出て行った。
「何がどうなってああいうことになったか……要は事情聴取じゃ」
「ああ、うん」
それは、確かに必要なことなんだろう。この組織は森の秩序を守ろうとしている。そんな中で俺が樹の天辺近くから『落とされた』とあれば……いわゆる警察沙汰みたいなイメージなんだな、多分。
「アシュレイとシュバルツと一緒に、森に行ったんだ」
「ほう」
「途中で森が動いて、そのタイミングでイノシシが俺に突っ込んできて、撥ねられて、樹に叩き付けられたりぶん投げられたりして、よくわからないところに放り出された」
「……その時点で、よく死なんかったのう」
「うん、俺もびっくりした」
「じゃろうな……それで?」
「それで、放り出された先で灰色っぽいしゃべる狼に会って、樹の中に帰らせてやるよって言われて……少し話したら意気投合して」
「……ああ、一匹、思い当たるやつがおるのう……」
ライディアスは少々面倒くさそうな顔をして、手元の書類にメモをつける。
「それでその後、樹の天辺に出入り口があるんだって言われて、登らされて、天辺近くから突き落とされた」
そうだ、あの時。
「……あの時、あいつ、俺と同じ顔の人間になった」
「じゃとしたら……間違いなさそうじゃな」
そう言うと、ライディアスは深くため息をついた。それからライディアスは俺の肩を掴み、じっと俺の目を見てきた。
「いいか、リショウ」
唐突に、真剣な口調。思わず息を呑むと、彼はおもむろに口を開いた。
「そいつはこの森の秩序を崩そうとしちょる、悪魔じゃ」
俺の中で、その言葉は現実として受け止められないものだった。
「嘘、だろ……?」
フェンリルが、あのナイスキャラのフェンリルが、森が好きだと言ったあのフェンリルが、森の秩序を崩そうとしているなんて、あり得ない。
『なあ、リショウ。俺は、おまえだって殺したい!』
不意に、フェンリルが俺に向けた殺意を思い出して、背筋が冷えた。でもあれは、森の秩序を崩したいわけではないんじゃないか。ただ単純な、大切なものを奪われた恨み、憎しみ、そういう類の気持ち、だろう。
「あいつは……そんなやつじゃない」
「おまえがどう思っても、事実は事実じゃ。実際、あいつは俺らを消そうとしちょる」
「でも、それは」
「リショウ」
諭すような声に、いつの間にか俯いていた顔を上げる。視界に移ったライディアスは、どこか険しい表情をしていた。
「あいつには二度と近付くな」
命令の意味がこもったその言葉に、俺は頷くことしかできなかった。
ライディアスが俺の部屋を去って少し経った頃、またノックの音が聞こえてきた。
「やっほー、リショウくん!」
「誰だかわからないようなセリフで入ってくるのはやめろ、レスティオール」
そう、レスティオール。ちょっとびっくりした。キャラ崩壊でも起きたかと思った。
「森のど真ん中で倒れてたって? 昼寝するにも場所選べよ、バッカだな!」
「うん、ごめん、ちょっと言っていい? テンションどうした」
異常にテンションが高いレスティオールに、混乱すら覚える。彼は一体何が楽しくてあんなにウキウキした笑顔で俺を見ているんだ。
「だっておまえ、あいつに会ったんだろう?」
「あいつ、って……?」
尋ねれば、レスティオールはあごに手を置いて考えるような仕草をする。
「森の主。白狼、銀狼、灰被り狼……いろいろ『呼び名』はあるが」
そう言ってから、レスティオールはにっと笑って見せた。
「『フェンリル』と名乗る妙な狼に、だ」
その不敵な笑みに、思わず目を見開いた。レスティオールは俺の反応を見て満足気に笑う。思っていた通りの反応、みたいな顔。
「知りたくないか? あいつが俺たちを消そうとする、本当の『理由』を」
にやりと笑ったまま放たれた、それでも真剣な言葉に、俺は迷いなく頷いた。