一
少しだけ、ほんの少しだけ昔のこと。ある森に、一匹の狼が住んでいました。
狼は森の生き物たちに恐れられていたので、いつも独りぼっちでした。
そんなある日のことでした。
独りぼっちで歩いていた狼の前に、黒い髪の女の子が現れました。
『君は、この森に住んでいるの?』
『おまえは、誰だ?』
狼は警戒して、じっと女の子を睨みました。
『私の名前は『エルド』だよ。君の名前は?』
『名前、って、何だ?』
『難しいことを聞くね、君』
女の子は少し驚いたような顔をして、狼を見つめました。
狼はむっとした顔で、女の子を睨みました。
『名前というのは、個人、個体を識別するためにつける符号のようなものだよ』
『……そんなもの、俺にはない。俺は俺しかいないから、識別なんて必要ない』
『そっか。じゃあ、私が君を呼ぶために、私が君に名前をつけるよ』
女の子はそう言って、狼の顔を見つめて、じっと考え込みました。
狼は見られていることが何だかむずがゆくて、女の子から目を逸らしました。
『フェンリル、というのはどうかな。ある村の民話に出てくる、狼の名前だよ』
『フェンリル』
狼は、少しだけ考えるように目を伏せました。
今まで、独りぼっちだった時には必要のなかった、識別のための符号です。
何だかくすぐったくて、狼はすんすんと鼻を鳴らしました。
『……悪く、ない』
狼がそう呟くと、女の子はとても嬉しそうに笑いました。
それから、女の子と狼はいつも一緒に過ごしました。
どこへ行く時も、何をする時も、いつも一緒にいました。
ところがある日、狼がいない間に、女の子の前に、何人かの人間が現れました。
その人たちは女の子に、狼と離れて自分たちの事務所へ来るように言いました。
女の子が拒むと、その人たちは女の子を気絶させて、連れて行ってしまいました。
ニオイを辿って女の子を探していた狼は、やがてその人たちと出会いました。
そして連れ去られようとしている女の子を見て、激しい怒りを感じました。
『エルドをどこに連れて行く! 返せ!』
女の子を取り返そうとした狼は、人間たちに負けてしまいました。
ぼろぼろになってその場に捨て置かれた狼は、ひとつの決心をしました。
エルドを奪ったやつらを、絶対に許さない。
いつか絶対に、エルドを取り戻しに行くんだ。
それから、狼は修行を重ね、やがて森の主と呼ばれるようにすらなりました。
もう狼に敵う動物はいなくなり、狼は前よりもずっと恐れられるようになりました。
そんなある日、狼の前に、白い髪の女の人が現れました。
それは、いつか連れ去られてしまった女の子の、成長した姿でした。
随分と印象が変わっていましたが、そのニオイはずっと変わってはいませんでした。
『元気そうでよかったよ、フェンリル』
その言葉を聞いた狼は、生まれて初めて『ウレシイ』の涙を流しました。