三
休憩を挟みながら登り続けて、ようやく空が見えてきた。
「今、何時だ……?」
何時間、樹を登り続けたんだろう。日が沈まない空は、俺が事務所を出た時と変わらない色をしている。それなのに、レスティオールやアシュレイと話した今朝が、途方もないほどの過去に感じる。
「さあな」
フェンリルが鼻を鳴らす。
「まあでも、ここまで来ればいいか」
ぽつり、フェンリルが呟いて、歩みを止めた。それに合わせて、俺も太い枝に足を乗せて、身体を休める。
「なあ、リショウ」
「何だ、フェンリル」
するとフェンリルが振り返って、俺のほうを見た。
「樹の天辺に入り口なんかないんだよ」
「は……?」
突然の爆弾発言。
「じゃあ、何のために、こんなところまで登ってきたんだよ、俺」
「何のため。何のためだろうなァ」
くすくす、くつくつと、フェンリルが笑う。
「俺は、あの白い建物が憎い。あの白い建物にいるやつらが全部、憎い。俺から『タイセツ』を奪ったあいつらが、俺から離れた『あいつ』が、憎い」
俺のほうへ近付いてくる、フェンリルの前足。それがすぐそばで人間の手に変わって、フェンリルが踏み出した後ろ足が、人間の足に変わっていく。
「なあ、わかるか? おまえのそのニオイが、あいつに似たそのニオイが、そしてあの白い建物にいるおまえが、俺は憎くて仕方ない」
フェンリルの手が、俺の肩をつかんだ。ドクリと、心臓が嫌な音を立てる。
あの時と同じ……この森に来る前、通学路の途中、シュバルツを追いかけようとした時に感じた、あの感じ。
足場がない、体を支える場所がない、掴むものがない、すがるものが、何も、ない。
「なあ、リショウ。俺は、おまえだって殺したい!」
目の前のフェンリルの顔が、見慣れた顔に変わっていく。
そうだ、俺はこの顔を知ってる。毎朝、毎日、鏡を見る度に映る、顔。
俺と、同じ、顔。
「じゃあな、リショウ。できるものなら生き延びてみろ」
冷たい目で俺を睨んで、フェンリルは俺の肩を押す。浮遊感、自由落下、重力加速度。今度こそ、死ぬんだろうか。シュバルツに襲われた時よりも、明確な恐怖を感じた。
……死にたく、ないな。
そっと目を閉じた。
まぶたの裏に映ったのは、学校の校舎、屋上、広がった弁当、学友たちの笑顔。
『なあ、吏生。例えば十年後にさ、同窓会とかすんじゃん?』
ああ、うん、十年後なのか。決まってんだ、そこ?
『俺さ、十年くらい後の吏生って、どんだけ頑張っても想像できねえんだ』
『あ、俺も!』
『俺も想像できないな……リショウの親父さんは見たことあるけど、似るとは思わない』
マジで? 俺もあの父さんにはあんまり似たくない。
『そう言ってやるなよ、親父さん泣くぞ』
泣かしとけよ。どうせ母さんが慰めてくれるよ。
『それは違いないかもな』
『でもさ、吏生。不吉なこと言うようで申し訳ないんだけど』
何だよ、神妙な顔して。
『リショウは俺たちの中で最初に死にそう』
……それはひどくないか?
『俺たち三人そろって、おまえの告別式に参加する未来が想像できてしまう』
『まあ確かに吏生って結構無茶するもんな』
『そのうち、トラックにひかれそうになった猫とか助けようとして撥ねられそう』
縁起でもねえこと言うなよ……。泣くぞ、俺。
場面が変わって、今度は家のダイニング。目の前には母さん、隣には父さん。
母さんはむすっとしていて、隣にいる父さんは脅えて縮こまっている。どうやら、俺と父さんは、二人そろって怒られているらしい。
『修行はいいよ、構わないよ。でもね』
ばん、と母さんが机を叩く。びくり、俺と父さんの肩が跳ねる。
『毎日毎日二人そろって汗まみれ血まみれ汚れまみれで帰ってきて! 掃除洗濯がどれだけ大変かわかる?』
え、そこ?
『それに血まみれって、二人で一緒に修行してるならありえることだよ? でも今は二人バラバラに修行してるはずだよね? 何で二人とも血まみれで帰ってくるの?』
俺は、その……近所の不良たちと、修行を。
『それはケンカと呼ぶんだよ、吏生』
すみません。でもそれ俺の血じゃない。
『俺は単純に仕事場で怪我を』
『確かに土木関係は危ない現場だけど、君の顔の明らかに殴られた跡はどう説明するの』
『……すみません、その、近所のチンピラを相手に……修行を』
『似たもの親子!』
ごめんなさい、母さん!
『謝ってほしいのは確かだけど、それだけじゃないの。私が言いたいのはね』
そうだ、あの時……母さんは、寂しそうに笑っていた。
『吏生、父さん。無茶しないで。死なないで。私を残していかないで』
心配されてたんだな……母さん、ごめん。言いつけ、守れそうにないです。
体中から力が抜けて、その直後には意識が飛んだ。