二
「これだぞ、リショウ」
ある樹の前、俺のいた世界の目の前で、フェンリルが歩みを止めた。見上げた樹は、やっぱり空に届きそうなほど高くて、他の樹とは見分けもつかない。
「間違いないのか?」
「当たり前だろ、俺は嘘なんかつかん!」
ふんと鼻息を荒くするフェンリルの脇を通り抜け、樹の幹に触れる。どくん、どくん、鼓動のような音を聞きながら、目を閉じた。
『……そういや吏生のやつ、行方不明なんだって?』
「!」
俺の名前。聞こえたのは後ろからだ。視界をめぐらせると(俺自身が頭を動かしたわけではなく、ぐるんと視界が変わった)、学友たちの姿が見えた。
『家出か?』
『いやいや、家出だったら真っ先に俺たちを頼るはずだろ』
『吏生って友達少ないもんな』
「……ひでえこと言いやがる」
そんな悪態をつきながら、頬が緩むのを感じる。懐かしい、懐かしい声だ。
『でもさ、吏生のご両親はたいして焦ってねえよな?』
『あ~……言われてみればそうかもな』
まあ、母さんはここの出身らしいし、俺がここに来たことも薄々感づいているのかもしれない。そんなことを考えたら、視界が暗転して、今度は俺の実家が見えた。
『吏生は無事かな』
ぽつり、そう呟いたのは、父さんだった。
『大丈夫でしょう、私の子だもの』
『そうだな、俺の子だしな!』
『……そこは心配だな』
『あれ!? 俺ってそんなに頼りないの!?』
変わらない、2人のやりとり。なんとなく泣きそうになりながら、俺はそっと目を開けた。視界に移るのは、樹の幹。そして後ろを振り返ると、フェンリルの姿が見えた。
「間違いなかっただろ?」
顔を上げて、フェンリルがふんと鼻を鳴らす。どうだ見たかコノヤロー、みたいな表情をしている。何て腹立つ表情だろう。でもなんとなく可愛いから許す。
「うん……間違いない」
学友たち、父さん、母さん。間違いなく聞こえた、俺の名前。
「……そうか、そりゃあよかった」
フェンリルはそう言うと、樹から少しだけ離れて、天を仰いだ。
「じゃあ、登るぞ」
「登るの!?」
この樹を登るのかよ、どんだけデンジャラスだよ!
……と、思わず心の中で突っ込んだ。散々言ったが、空にも届かんばかりの、天辺も見えないくらいの、巨木である。
「天辺に入り口があるんだ」
「マジか!」
「だから登るぞ」
「ええええ……」
どうやら、拒否という選択肢はないらしい。とりあえずため息をついてから、樹を見上げてみた。……高っ!
「無理だろ」
「無理じゃないさ! 諦めたらそこで試合終了だぜ?」
「おまえどこからそういう言葉覚えてくんの?」
そういったわけで、俺は現在、フェンリルに案内されるまま樹をよじ登っている。
「気をつけろよ、リショウ。落ちたら怪我じゃ済まんぞ」
「そんな気がすごくする」
俺の先を行くフェンリルに、苦笑を返す。もう笑うしかない。天辺が見えないし、目標地点もわからないし、怖すぎる。
「それにしてもリショウ、おまえは木登りがヘタクソか」
覚束ない動作の俺に対して、少々ひどい言い草のフェンリル。
「だってよ、この歳になって木登りなんてしねえぜ?」
かなり久し振りのはずだ。いつ以来だっただろう……。
試しに、少しばかり、記憶を辿ってみた。
『下りなよ、吏生。落ちたら大怪我するよ』
不意に甦ったのは、少々前の記憶。
『バカ言え、あともう少しで届くから!』
木の下にいる学友にそう言って、手を伸ばす。その先にあったのは、小さな帽子。
『兄ちゃん、危ないよ~!』
『落ちるよ~!』
『るっせ! 落ちねえから!』
毎朝、登校時にすれ違う小学生のガキども……ゴホン、子供たちが不安そうに俺を見上げている。そして俺の手の先にあるのは、そのうちの片方、女の子のほうの帽子だ。
『あと少し……!』
ぐっと手を伸ばして、ギリギリ、帽子に手が触れた。その途端、ふわりと帽子が舞い、下へ落ちていく。
『兄ちゃん、ありがとう!』
『ありがとう!』
嬉しそうに帽子を拾う女の子と、ほっとしたように笑う男の子。
『おうよ!』
そう言って、俺は木から飛び降りた。
『吏生!』
焦ったような学友の声を聞いて、思わず目をふさいだ子供たちの様子を見て、そんな三人の背後に無事着地。
『どうだ、百点!』
『……心配して損したよ』
呆れたような学友の声を聞きながら、俺は笑ったんだ。
それは高二の夏休み、ある公園での出来事。
「……意外と最近だったな……」
「? 何か言ったか、リショウ」
「何でもねえよ、気にするな」
木登りなんていつ以来だろうって、つい1ヶ月前じゃねえか。どんだけ無邪気だ。
そしてそんなに最近木登りをしておいて、これだけ覚束ない足取りは何だ。悲しいわ。
「それにしたって、フェンリルよ」
「何だ、リショウよ」
妙なことを口走ってもいちいち乗ってくれるフェンリルが素敵だ。
「おまえ、登るの慣れてんな」
「当たり前だろう、俺は森の主だぜ? 一日一本登るくらいの勢いだぜ?」
「それは森の主だとしても登りすぎだろう」
というか、森の主ならこう、森の奥にある泉的なところにいてほしい。
そして森を歩き回らなくても森の状況を察することができてほしい。
天を仰いで『……森が、動く』とか呟いててほしい。
……絶対カッコいい。
「まあ、俺に名前をつけたあいつには『森の主ならむしろ森の奥にある泉的なところから動かずして森の状況を察して、天を仰いで何がしかを呟いていてほしい』などと言われたがな。全く意味がわからない」
「うん、ごめん」
とりあえず謝った。同じこと考えててごめんなさい。
それにしても、フェンリルに名前をつけた女性というのはどんな人なんだろう。仲良くなれる気がすごくする。
「少し休むか」
フェンリルが足を止めたので、俺も近くの枝に座った。ふっと息をついて、上を見る。天辺はまだまだ遠い。きっと、まだ半分も登れていないんだろう。
「道は長いな」
「頑張れ、帰るんだろう?」
フェンリルは、そう言ってポンと俺の肩を叩いた。
「……おう」
何だろう。心が、苦しくなった。