一
「リショウはこんなところで何をしている?」
狼っぽい犬っぽいそいつ、フェンリルは、俺の側に座って尋ねた。
「実はさっき……森が動いた時なんだが、イノシシに吹っ飛ばされて、樹にぶん投げられて叩き落とされて、いろいろあってここに落ちた」
「……よく無傷だったな」
「今、自分でもびっくりしてる」
「そうか」
話してみると、意外にいいやつみたいな感じだ。しかしわからない、何せ名前がフェンリルだ、悪役というイメージが強すぎる。……まあ、フェンリルという語感はカッコいいから好きなんだが。
「どこから来た?」
「事務所から」
「ジムショ……?」
フェンリルがきょとんと首を傾げる。何だ、ちょっと可愛い。
「白い建物、知らないか? 森の樹よりも高い、建物」
「ああ……樹の天辺から見たことがある」
そう言うと、フェンリルは少しだけ嫌そうな顔をする。
「俺はあの建物がキライだ」
「どうして」
尋ねると、フェンリルは俺から目を逸らして、呟くように言った。
「あの建物は、俺の『タイセツ』を取っていった」
「大切……?」
「今はいいんだ、もう忘れそうなくらい昔のことだ。だから俺は、今更どうこう言う気はないんだ」
そう言うと、フェンリルは立ち上がる。
「リショウはあの建物の前、どこに住んでいた?」
「え」
フェンリルは笑ったような顔をして、俺に言った。
「リショウは、本当は樹の中から来たんだろう?」
思わず、口をつぐむ。そうだ、確かに俺は、樹の中から来たんだ。
「だったら帰りたい場所は、あの建物より樹の中のはずだ」
「……帰る方法を、知ってるのか?」
その言葉に、フェンリルは、確かに笑った。
「知ってるさ。俺はこの森の主だぜ?」
俺のいた世界について説明したら、フェンリルはすぐに納得したような顔をした。
「なるほどな、その樹なら知ってる。何度か覗いたこともある」
「本当か!」
「本当だ、俺が嘘をつくような男に見えるのか!」
「男には見えないな、おまえはオスだ」
「……そうだな、言葉を間違えた」
本当にいいやつっぽい感じだ。これからは名前で判断するのはやめよう。そういえば名前って、基本的には自分でつけるものじゃないもんな。
「こっちだ」
歩き出すフェンリルに続いて、俺も歩き出す。
「そういえばおまえ、俺のニオイが『懐かしい』って言ったよな。何でだ?」
「……初対面の人間に言うのは気が引けるな」
フェンリルはそう言うと、ふっとため息をついた。あ、バカにされた?
「だが、そういうところもあいつと似ている。うっとうしいところ」
「……おまえ、実は俺が嫌いか?」
「明言は避けよう」
「嫌いなのか!」
初対面の狼に嫌われるなんて悲しすぎる。いや、そもそも初対面の狼に嫌われるほど会話ができているということ自体が、既に異常事態ではあるんだが。
「ははは、冗談だ。嫌いなやつに優しくするほど暇じゃないんだ、俺は」
「そうかい」
実はちょっと嬉しい。
「リショウのニオイは、俺に名前をつけてくれたやつと似てるんだ」
「……ニオイ、だけ?」
「まずあいつは女だったし」
「あれ!? 俺って女のニオイすんの!?」
思わずくんくんと自分のニオイを確認する。
もしかしたらあれかな、アシュレイが用意してくれたこの服って実はその人のお下がりなのかな。だからその人と似たニオイがしてしまうのでは。
「ぬっはは! 違うぜ、リショウ」
「何だ、その妙な笑い方」
「なんとなくだ」
「そうか」
何だろう、この狼との会話は何だか楽しいです。
「俺が嗅ぐニオイっていうのは、『魂』のニオイだ」
「魂のニオイ?」
「そうとも!」
何故だか自慢げに鼻を鳴らすフェンリル。
「身体のニオイっていうのは、世界を跨ぐとどうしても変わるんだ。身体を構成する要素とか、元素とか、そういうのが世界によって変わるらしくてな」
鼻をひくひくさせながら、フェンリルがそんな説明をする。
「でも魂のニオイっていうのは、どんな世界に行っても、何度生まれ変わったところで変わるものじゃあない。だから俺はそのニオイを嗅いで、そのニオイを覚える。そうすればどこにいたって、どんなに時間が経ったって、わかる」
そう言って、フェンリルは俺のほうを振り返った。
「すごいだろ?」
自慢気だ。
「これから先、リショウがどんな世界に生まれ変わっても、俺にはすぐにわかる」
「それはすげえな」
そしてごめん、生まれ変わったあとだとしたら、俺にはおまえがわからないと思う。
……多分。
「そもそも、リショウはどうやってこの森に出て来た? 普通、樹の中の生き物は外に干渉できないはずだ」
ふと、フェンリルが俺のほうを振り向き、そう尋ねてきた。
「ああ、えっと」
とりあえず、フェンリルにはこれまでの経緯を軽く説明しておこう。あまり詳しく話しても、わからないだろうし。
「あの事務所に新しい人材として連れてこられた感じだ」
その短い説明に、フェンリルは少し考えをめぐらせてから、口を開いた。
「すると何だ、あれか? 勝手に連れてこられて拉致されたのか」
「いや、拉致って程じゃ……」
「『身柄拘束なう』ってやつか。極悪非道だなっ!」
「いや、『なう』っておまえ、どこで覚えた」
「やっぱりあいつら嫌いだ」
「聞いてない!?」
ふん、と鼻を鳴らすフェンリルに、思わず苦笑を漏らした。何と言えばいいのか、すごく人間らしいと感じる。それを口にしたら、フェンリルは怒るかもしれないけど。
「自分たちが森で一番偉いみたいに鎮座して、腹が立つ」
「そうなのか」
森の生き物たち視点からだと、そう思っていたのか。そう言えば確かに、アシュレイといる時に目が合った鹿たちは、どこか恨めしそうな顔をしていたような気もする。
「元々、森の秩序なんてものは俺たちがずっと守っているんだ。今更あんなへんちくりんな組織なんざ作らなくたって、充分この森は生きていけるんだ」
そう話すフェンリルは、真剣な顔をしていた。
「おまえ、この森が好きなんだな」
思わずそう言うと、フェンリルはにっと笑って振り返った。
「当たり前だ」