三
どこかで何かを間違えたのだとしたら、おそらくあの時、あの一瞬。
『まずいな』
ぽつり、アシュレイが呟いたのは、少し前。
『どうした?』
『リショウ、気をつけろ。……森が動くぞ』
『え、動くって』
どういうことですか。言葉が出る前に、樹が動き出す。がさがさ、がさがさと、何かを振り落とすように、何かを嫌がるように。
『世界樹は時々、ああして動くんだ。推測ではあるが、体操のようなものじゃないかとザルディオグは言う』
『体操?』
『世界樹として最良の状態を保つ、と言うのかな。例えば異物と判断したものを排出したり、増えすぎた生物を減らしたり……毒素を排出する、というような……そういうものではないかと、ザルディオグは考えているらしい。実際のところは研究中らしいが』
『へえ……』
言葉のたどたどしさから、情報の曖昧さが伝わってくる。
しかし、研究部はいろんなことを研究しているんだな。ものすごく興味をそそられるんだが、いつか見学させてもらえないかな。
『ちなみに、森の樹が一斉に同じ動きを始める理由については、一本の樹が動くことで森が共鳴しているとか、森の中で動くタイミングが決まっているとか、諸説ある』
がさがさ、がさがさ、周りの樹が全て、何かを振り落とすように動く。
『森の動きが収まるまで、おとなしくしているように』
『わかっ』
た。言葉が途切れた。横から走ってきた何かが、俺を撥ねた。ギャグ漫画みたいにすっ飛んだ。
『リショウ!』
アシュレイの声が急激に遠のいて、身体を揺らした樹に投げ飛ばされるような形になったり、叩き落とされそうになったりしながら、ようやく地面に放り出されたのが、ちょうどさっき。
「……俺のせいじゃないじゃん!」
俺、どこでも何も間違えてない! 強いて言えば、あんなところからイノシシが突進してくるなんて思わなかっただけだ。だけどきっと誰もそんなことは思わないから、きっと俺は悪くないんだ。違いない、うん。
「しかしながら……よく無事だったな、俺」
あれほどの仕打ちを受けながら、致命的な怪我がひとつもない。俺、どんだけ。
「で、どこだ、ここ」
白崎吏生、十七歳。高校二年生。迷子。
……笑えない。
「これは、誰かが見つけてくれるのを待つしかないか……」
とりあえずその場に座って、一息。
一応周りを見回してはみたが、樹と草しか見えない。事務所の壁でも見えやしないかと思ったのだが、そううまくはいかないらしい。ただ白いフクロウを何羽か見かけたので、西の森ではあるだろうと推測できた(しかし、せっかくなら赤いフクロウとか緑色のフクロウも見てみたくはある)。
「……んん? 久々だな、こんなところで人間を見るのは」
不意に、後ろから声が聞こえた。座ったまま振り返ってみると、灰色っぽい狼と目が合った。……狼? いや、犬……? 今、確かに人の声が聞こえたのに。
「何だ? 妙な顔しやがって」
狼っぽくて犬っぽいそいつは、怪訝そうな口調で言う。……喋ったの、こいつだったのか……。
「それにしても、おまえは何だか懐かしいニオイがするな」
鼻をひくつかせながら、そいつが近付いてくる。どういうわけか、恐怖も危機も感じない。俺が図太いのか、そいつが癒しオーラでも放っているのか、何なのか。
「おまえ、名前ってあるか?」
「は……?」
質問の意味がつかめず、一瞬戸惑ってしまう。するとそいつは、どこか嬉しそうに再び口を開いた。
「名前って知ってるか? 個人、個体を識別するためにつける符号のようなものだ」
「知ってる。……知ってるし、ちゃんとある」
そう言うと、そいつはまた嬉しそうな表情をする。……いや、犬や狼の表情なんか、実はよくわからないんだが。
「そうか! どんな名前だ?」
「吏生」
「リショウ、リショウか。なるほど、確かにおまえはリショウという顔だ」
どんな顔だ。
「おまえ、は? おまえの名前は?」
そう尋ねると、そいつは誇らしげに言い放った。
「フェンリル、という。覚えておくがいい」
……マジか。
北欧神話について詳しいわけではないけれど。
世界樹に、フェンリル。……悪役のニオイが、すごくする。