一
「おい、客人! 起きろ! 朝の時間だ!」
初めて聞く声だ。低めの、男の声。開こうとしない目をなんとか開いて、瞬きを数回。俺の目の前には、俺の腹の上に乗って喚く、白いリスの姿がありました。
「……は?」
「は? じゃねえよ! 朝の時間だから起きろってんだ!」
「いや、そこじゃない、そこじゃない。え、リス? リスなの?」
「ああ? 客室担当がリスじゃ悪いのか、コラ」
「悪くはないよ、癒し系だから嬉しいくらいだよ。え、何で喋ってんの?」
「リスが喋っちゃ悪いかコラァ!」
「いや、悪くはない。可愛いから許すよ」
「ちょっと待て、ちょっと待て、え? 寝ぼけてんのか? ちゃんと起きてるか?」
「うん、ちょっと待って、多分まだうまいこと起きてない」
一連の会話をしながら、ようやく意識がはっきりとしてくる。それでも、やっぱり俺の腹の上にいるのはリスだ。白いリスだ。何か、オーバーオールとか着てる。可愛い。
「……あんたが、客室担当の? あ、客室担当ってリスなのか。え、リス? 嘘だ!」
「もうおまえ、わかりにくいよ……寝言なら寝たまま言ってくれよ……」
リスは呆れたようにため息をついてから、仕切り直して自己紹介をしてくれた。
「改めて、俺が客室担当のレイシャルだ! よろしく頼むぜ、客人!」
格好良くポーズを決めるリス……レイシャル。うん、この外見ならもっと可愛い声で喋ってほしかったな……何でこんなに低音ボイス。
「……ガチでリスなんだな、びっくりした」
思ったことを素直に口に出しつつ、上体を起こす。ころん、ころん、レイシャルがベッドの上を転がっていく。
「てめえ! 起き上がるなら先に言えよ! 受身が取れたからよかったものの!」
「あ、受身とか取れるのか、すごいな」
「ったりめえだ! リスという野生の底力を舐めんじゃねえ!」
「……なんか、すみませんでした」
さて、そんな朝の紆余曲折を経て、俺とレイシャルはすっかり仲良しになった。
「いい湯だったよ。ありがとな、レイシャル」
「おうよ!」
とりあえず風呂に入ってから、アシュレイが用意してくれたという服に着替え終えた現在。ちなみに、何故だろう、サイズが全部ぴったりだ。下着も含め。
「おい、リショウ! おまえの着てきた服はベランダに干しておいたからな!」
「わかった、ありがとう」
俺が着てきた衣類は、俺が風呂に入っている間にレイシャルが洗ってくれた。制服のままで寝てしまったことは、母さんには内緒にしておこう。
「必要とあらばアイロンもかけるぜ?」
「本当か、ありがたいよ。じゃあ、あとで頼めるかな」
「任せろ!」
どんと胸を叩くレイシャルに、笑みがこぼれる。何だろう、やっぱり小動物っていうのは可愛いな。……例え口が悪くても。
「さて、リショウ。腹が減っただろ? これから食事の用意をしてやる!」
「マジで! 上から目線なのはちょっとあれだが、ありがたい!」
「何か食いたいものはあるか?」
「フレンチトースト」
「じゃあ今日は卵かけ御飯だ!」
「何てこった!」
何だかレイシャルと話していると、学友たちと話している時と似たようなテンションになる。……そういえばあいつら、どうしてるかな。
不意に思い出したのは、学友の一人の家に遊びに行った時のこと。
『そうだ、何か飲み物でも持ってくるよ。吏生、何がいい?』
『コーヒーにできる限りたくさんの牛乳を混ぜたもの』
『わかった、牛乳ね』
『何てこった! コーヒーどこに消えたんだよ!』
その時は結局、本当に牛乳を持ってこられてしまった。仕方がないので、近所のコンビニでブラックコーヒーを買ってきて、自分で混ぜて飲んだ。少々苦い記憶だ。
『なあ、砂糖ってある? スティックシュガー的なあれ』
『ないよ。うちの家族、みんな甘いものは好まないから』
『何だと! ちくしょう、この家は俺の敵だ!』
『吏生ってさ……何かこう、微妙に残念だよね』
……懐かしいな。
「待たせたな!」
どん、目の前に差し出されたのはフレンチトースト。
「……卵かけ御飯じゃなかったのか」
「おまえな、客のリクエストも聞けないで客室担当が務まるかってんだ」
どこか呆れたように言うレイシャル。……まあ、ごもっともだ。
「ありがとう。いただきます」
「どんどん食え! おかずにベーコンエッグでも作ってやろうか」
「是非いただきたい」
「おう、任せろ! 他に食いたいモンがあったら何でも言えよ!」
「じゃあとりあえずサラダと漬物も」
「……その並びに漬物?」
甘いフレンチトーストを頬張りながら思った。レイシャルは、いいやつだ。
朝食を終えた後、レイシャルと一緒に食器を洗う。レイシャルは自分がやると言ったのだが、暇だから手伝わせてくれ、と言ったら渋々了解してくれた。
「リショウは変なヤツだな。今までの新人は誰も手伝うなんて言わなかった」
「ははは……そうかな」
面と向かって言われた『変なヤツ』という言葉に内心傷つきつつ、苦笑を漏らす。
「ここへ来て二日目っていうのは、大体の新人が現実逃避に走るからな。特に俺を見た後の現実逃避具合なんて見てられねえぜ? これは夢だ、これは夢だ、リスが喋るなんて現実で起こるはずないじゃないか、そうじゃないか、ってよ!」
「へえ、そうなのか」
……どこの世界でも、リスが喋るのは『異常事態』なんだな。
「まあ、俺は嫌いじゃないぜ! リショウみたいな変なヤツ!」
「ありがとう」
フォローを忘れないレイシャルは、やっぱりいいやつだ。ただしそのフォロー中にもかなり傷口を抉ってくるワードがあるのは……わざとじゃないと信じたい。
それからややあって、コンコン、ノックの音が聞こえてきた。
「リショウ、起きてるか?」
アシュレイの声だ。
「おう、起きてる」
「失礼するぞ」
がちゃり、扉を開けて入ってきたアシュレイは、キッチンで皿を洗う俺を見て目を瞬いた。きょとんと言うか、ぽかんと言うか。
「……おまえ、何をしてるんだ」
「え、皿洗い?」
「悪い、質問を間違えた。何故おまえが皿を洗っている?」
「暇だったから」
「……そうか」
アシュレイは一度、呆れたようにため息をつき、改めて口を開く。
「切り上げろ、暇はなくなった。支部長室へ行くぞ」
「何しに?」
そう尋ねると、至極面倒くさそうに目を細めて、アシュレイは言った。
「森で少々、問題が起きた」
それからがしがしと頭を掻いて、アシュレイは申し訳なさそうに口を開く。
「そういうわけで、今日はおまえの近くにいられないんだ。だからレスティオールのところにいてくれないか?」
……何だか、面倒くさいことが起こるような気がする。