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茜ヶ久保薫と、私

「どうしよう、傘なんて持ってないよ」

 目の前の水溜りに、幾つもの波紋が広がっては消える。しとどに降り注ぐ雨、午後から急に降り始めたそれは、本当に久しぶり、久しぶりの雨だった。だから私は当然のように傘を持っていなくて、高校の正面玄関で一人、呆然としていた。

 いつもこう、いつもこうだ、行き当たりばったりで行動して、先の事を考える頭も無く、かと言って不測の事態が起った時にそれを解決する能力も無い。

 学校指定の革靴で水しぶきを跳ね上げながら一心不乱に走る男子生徒を見て、私は溜息をつく、革靴は乾きにくいのに。

 でも、そうするしかないよね、と覚悟を決めた時、「よっ」と言う声と共に、私の右肩がポンと叩かれた。

「ゆかりん、どうしたの? 傘が無かったり?」

 屈託の無い笑顔を私に向けていたのは、私、秋月ゆかり――しゅうげつゆかり――の幼馴染で、一年先輩の茜ヶ久保薫――あかねがくぼかおる――だった。

「折り畳み傘を持っているんだけど、入る?」

 エナメルバックから赤く可愛らしい折り畳み傘を取り出した彼女は、私がそれを断るとは微塵も思っていない輝いた目だ。

「かお姉、ありがと、お邪魔するね」

「前に入れたのがそのままだっただけよ、ありがたがる様なものじゃないわ」

 それがかお姉の謙遜だって事を私は良くわかってる、彼女はそう言う、感謝されたり、ありがたがられると「居心地が良くない」とすぐに照れてしまう性格だからだ。その証拠に、開かれた折りたたみ傘には、まだあまりシワが無かった。


 かお姉は身長が百七十五センチ位あって、百五十センチ台の私に比べるとどうしても大きい。だからこうやって相々傘をする時には。背を曲げる彼女に「私が持つよ」と言うのが一種の儀式の様になっている。

「こうやって、二人で帰るのは久しぶりだね」

「そういえばそうね、ずっと、忙しかったからねえ」

 私とかお姉の両親がテニス好きだったのも手伝って、私達は幼い頃からテニスをしていた、センスが無いのか何時までたっても上達しなかった私と違って、かお姉はメキメキと上達し、今ではテニスでは全くの無名である私達の高校から歴代で唯一県選抜に選ばれるほどになっていて、早々にテニスに見切りをつけて高校で生徒会役員になった私とはどうしても生活リズムが合わなくなる事が多かった。

「部活はもう引退してるから、これからは毎日でも一緒に帰れるし、遊べるよ。あ、でも日曜日はダメかな、家庭教師が来るから」

「家庭教師?」

 不自然だと思った。かお姉は学年でも成績優秀な方だったし、何より彼女はそのテニスの実力から進学先は有名どころを選べるほどの筈だ。

「どうして? かお姉はスポーツ推薦があるでしょう?」

「うーん」と彼女は困ったように頭を掻いた、そんな姿でさえ凛々しくて、少し可愛らしいのは反則だと思う。

「スポ薦は、全部蹴ろうと思って」

「へ?」と思わず漏れた私の声は、赤い折りたたみ傘を叩く雨音に負けそうになるほど間抜けな物だったが、それは何とかかお姉に届いたらしい。

「あー、やっぱそうなるよねえ」

「そうなるよね、って、そりゃそうだよ。意味わかんないもん」

「たはは、先生と同じ事言うなあ、ゆかりんも大分大人になったんだねえ」

 かお姉はクシャクシャと私の頭を撫でる、きっと何時までたっても、この関係性は変わらないんだろう。

 かお姉はもう一つ「うーん」と唸った。

「同じ学年の皆、今凄く頑張ってるから、今ここで私がスポ薦取ったら、なんだか卑怯でやだなーと思ってさ」

 一瞬、かお姉が何を言っているのか意味が分からなくて、思考に少し間が開いた。そして思考が追いついたときにも、何をこの人はこんな、まるで映画の様な台詞を言っているのだろうかと思った。推薦を取る努力をしなかった生徒が三年生になってから頑張るのは当然の事じゃないか。

「かお姉は高校に入ってからこれまでずっとテニス頑張ってきたじゃん」

「うーん。テニスは、楽しくてやってたからなあ、テニスのおかげで友達だって増えたし、色んなところにタダで行けたしね」

 それに、と彼女は一つ言葉を切って。

「スポ薦を取ったら、これからテニスを楽しくやれないような気がするんだよね。私ってテニスくらいしか取り得が無いのに、それが楽しく無くなっちゃったら、ねえ」

「そんな事ないよ」

 かお姉の言葉に、考えるより先に言葉が出た。

「かお姉は素敵じゃん、綺麗だし、スポーツ万能だし、優しいし、頭だって良いもん。私は、かお姉がテニスをやらなくなっても、かお姉の事、好きだよ」

 革靴が水溜りを踏み抜く音が一つ、二つ。少し離れた三つ目を踏み抜こうという時、私の頭を、かお姉が撫でた。

「ありがとう、私もゆかりの事好きよ」

「かお姉なら大丈夫だよ、きっと志望校に受かるよ」

「うん、うん」

 少しだけ震えた声の私を、かお姉は優しく撫でた。かお姉より背が低くて、良かったと思う、涙目になっている私の顔が見えなくて、心配かけなくてすむから。

 その後は、ずっと、他愛も無い会話。


 一緒の時間が終わる十字路、私は横断歩道を渡って真っ直ぐ、かお姉はそのまま左。

 左折してきた引越しのトラックには、子猫を咥えた黒猫の絵が描いてあった、私はそれをみて、なぜか金魚を連想して、あっ、と声を上げた。

「金魚に、餌をあげてない」

 私達の学校は、一クラスに一つづつ金魚鉢が置いてあって、それぞれのクラスが金魚を飼育していた。私のクラスでは、その日の日直が、金魚に餌を与える役割だった。しかし、私は、久しぶりに雨に憂鬱になっていた所為なのか、それをすっかり忘れていた。

「かお姉ありがと、私、学校に戻るから」

 折りたたみ傘をかお姉に手渡して、駆けて学校に戻ろうとする私を、かお姉が引き止める。

「まあまあ、折角ここまで濡れずに来たんだから、わざわざ戻る必要ないじゃん。明日代わりに餌あげてあげるわよ」

「明日って、明日は土曜だから学校開いて無いじゃん」

 フフフ、とかお姉は笑って「明日は図書館解放日じゃん」と言った。

 図書館解放日と聞いて、私はああ、と納得する。

 私達の学校には、校舎とは離れた場所に、図書室が独立して存在している、なぜかは分からないがその図書室の蔵書の数と広さは下手な図書館より充実していて、月に二度だけ、土曜日に生徒たちが自由利用できるようになっていた。私はそれをあまり利用した事がなかったからすっかり頭の中から抜け落ちていた。

「ああ、良かった、それなら自分で行くからいいよ」

「良いって良いって、私、明日学校に良く用事があるから」

「自習?」と私が聞くと、彼女はううん、と小さく首を振った。そして、恥ずかしげに唇をかんで。そっと私に顔を寄せた、思わず顔が赤くなる。

「誰にも言うなって言われているんだけど、ゆかりんにだけ特別に教えてあげる。実は明日、男の子に呼ばれてるんだ」

 前にも増して強くなった雨音と、左折車が水溜りを踏んだ音に、私の戸惑いの声はかき消された。

「誰かは、言えないんだけどね」

 悪戯っぽく笑った。

「こういうのって、初めてなの、私ってモテなかったから」

 違う、それが違う事は付き合いの長い私がよくわかっている。

 かお姉はもてない訳じゃない、くだらない男達からすればかお姉が眩しすぎるだけだ、男達は何でも出来る彼女に嫉妬しているだけ。

「だから明日は、自分なりにおしゃれしていくんだ。ふふっ、なんだか楽しみ」

 私は視線を彼女から水溜りに移した、そうしないと、そうしないと、嫉妬で、嫉妬で、不機嫌な顔を見せてしまいそうだった。

 ただの市立高校に、かお姉に釣り合う男なんているもんか。

「やきもち、焼いてるね」

 笑って、頬を突かれる。

「大丈夫よ、私とゆかりんは、ずっと、ずっと、一緒だから」

 彼女は私に折り畳み傘の柄を押し付けた。急な事に思わずそれを掴んでしまうと、彼女は軽い身のこなしで傘から飛び出して「私のほうが家から近いから」と背を向けた。

「かお姉!」

 水を跳ね上げた彼女は、私のほうに振り返る。

「うまくいくと良いね!」

 心にも無い事を、言った。

 かお姉は満面の笑みで手を振ると、そのまま駆けて、あっという間に見えなくなってしまった。

 雨脚がまた強くなった、明日の朝までは降りそうだ。

 私が走っているかお姉を見たのは、それが最後だった。


 かお姉なりのおしゃれと言う物がどういうものなのか、私は結局分からなかった。

 どんな服を着ていたのか、どんなお化粧をしていたのか、どんな表情をしていたのか、そんなの分からないくらい無残に、ボロボロにされたかお姉が校舎裏から『発見』されたのは、翌日、土曜日の、夜の事だった。

 月曜日の朝、私は学校に行く気になれなくて、部屋の真ん中に座り込んでいた。両親も、何も言わなかった。

 人生は、不公平だと思う。

 かお姉があんな事になって、同じクラスの鮎澤はのうのうと生きている、あいつは今日も、ニタニタと笑っているのだろう。

 でも案外、この世界はそういうところでバランスを取っているのかもしれない。かお姉は完璧すぎたから、きっと、きっと。

 それに、これで、かお姉は誰のものでも無くなった、だからきっと、良いんだ、良いんだ、良いんだ。

 ずっと一緒にはなれなかったけど、そういえばかお姉が嘘をついた事なんてなかったな、それでもまあ、良いんだ、良いんだ、良いんだ。

 肺から何かが込み上げて来て、私は思い切りそれを吐き出した。それは次から次へと、止まってはくれなくて、私は真っ赤な折り畳みを胸に抱いて、それを涙で暗く染め上げ続けた。

「ウソツキ」

 空気を吐き続けた肺が、呼吸を求め、私はしゃくりあげた、その衝撃でまた、かお姉さんの顔が浮かんで、私はまた一つ「ウソツキ」と。

 後書き

 まずは、爆ぜた金魚鉢と幾許かの奇人に目を通して頂きありがとうございます、作者です。

 この作品に対する意見は色々あるとは思いますが、もし、お時間に余裕があれば、全四話一万二千字程度の作品ですので、もう一度目を通していただいて、八人の登場人物の中で誰が最も奇人であったか、考えていただければ、作者冥利に尽きると思っております。

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