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鮎澤又三郎と、俺

 顔写真と共に、魚前友則――うおまえとものり――と印刷されたネームタグを首から下げながら、俺は花壇の土にじょうろを傾けていた。

 教員免許取得後すぐに公立高校の非常勤講師になれたは良いが、思っていたよりも教職と言うのは心身共に負担が大きい様に思う、もちろんそれらを負担とも思わす笑顔で快活に職務を全うするのが良い教師なのだと言う事は分かっているが、どうも自分はこの仕事に気楽さと安定を求めていたようだ。

 特にこれからは、また仕事が増えるだろうし、今日の放課後にも臨時の職員会議だ、恐らく明日も、明後日も。

 大学生や社会人となれば、自らの性格を世間に悟られないように上手く隠して、摩擦を少なく世を渡る人間が多い、俺は今まで、そういうものに慣れきっていたのだろう。要するに俺はこの高校生と言う世代の、剥き出しの個性に、いまだ戸惑っている。

 生徒からの人気は、まあまあある方だと思う、なんだかんだで年齢時代は彼らに近いし、彼らの流行話の相手をしている時にも、その八割ほどは分かっている。まだここに来て日が浅いからいやなイメージがないというのも理由の一つだろう。それでもやはり、彼らの遠慮の無さや、下手糞な自己表現には対応に困る事もある。

 だから、たまにこうやって、花壇に気を向けるのはとても良い気分転換だ。三色スミレは良い、彼らは喋らないし、考えない、俺の事を良く思わなければ、悪くも思わない。だから、ある意味では気を使わなくても良いのだ。

 ふと、花壇の隅、土が不自然に盛られているのに気付いた、なんだろうと、身をかがめると同時に「せ、先生」と俺を呼ぶ声がした。

 どぎづさを感じるほど磨かれた学校指定の革靴が目に入って、それに沿って顔を上げると、顔なじみの生徒である鮎澤又三郎――あゆさわまたさぶろう――が、何時ものにやけ顔と違い妙に真面目な、ニキビだらけの顔をこちらに向けていた。

「鮎澤か、どうした」

 鮎澤はクラスから悪い意味で浮いている存在だった、それだけならまだ良いが、鮎澤自信が何処か悪意を持って他人に接しているところもあって、彼の周りに人がいる事は無く、どこで彼を見ても、背の低いニキビ面の男が一人にやついているだけだった。

 ある日、居た堪れなくなった俺は彼に話しかけた、たまたま、本当にたまたま彼と同じ趣味があったので、良く話す様になった。彼は俺に対しても悪意のある言動をとる事があったが、俺にしてみればそれはとても他愛の無いことだったので、いつも受け流していたら、余計に彼に好かれたようだ。

 鮎澤は目を泳がせて、小さな声で言った。

「ど、どうしても言わないといけない事があるんだ」

 鮎澤が何かに怯えている事は、例え俺が彼と仲良くなかったとしても分かるだろう。その証拠に、彼はこんなにも素直に、直線的に人と話すことなんて滅多に無いからだ。

「なんだ? 重要な事なら担任の先生のほうが動きやすいぞ」

「せ、先生じゃないとダメ! ダメ!」

 甲高い声が更に甲高くなる。

 これでもまだ油断は出来ない気はするが、俺は「なんだ?」と返した。

「わ、割ったのは、ぼ、僕なんだ、ほ、本当だ! 信じて!」

 割った、とは一体何のことだろう。

「割ったって、何を?」

「き、き、金魚鉢、ぼ、僕が金魚鉢を割ったんだ」

 俺は、校庭にちりばめられた無数のガラスの破片が、朝日に照らされて煌いていた光景を思い出した。どきりと、心臓が鳴った。

「お前だったのか、でもまた、如何して」

 鮎澤はそういう悪意を持った嫌がらせをするとき、絶対に証拠とか、自分が不利になる要素を残さない、リスクの少ない選択肢を取る男だった。基本的に頭は良くないはずなのに、そういう嗅覚にだけは優れていた。

「ど、どこから、どこから話せば良い?」

 えらく素直だ、重ね重ね驚く。

「あー、それじゃあ、何で教室に行ったんだ?」

 うっ、と鮎澤は言葉に詰った。どうやら金魚鉢を割った事以上に言えないことがあるらしい。しかし、ここらへんできつく言っておかないと、鮎澤にとってあまりよくない気がする。

「鮎澤、落ち着いて、本当の事だけを言えよ、そうしないと俺も信用できないからな」

「う、うん。ク、クラスの奴らの机を拭くために」

「ん? 掃除か。いや、お前の事だ、掃除じゃないんだな」

「う、うん、べ、便所掃除に使われてる雑巾で」

 心の底から呆れかえる。

「お前さあ、何でそう言う事すんの?」

「だ、だって、面白いから」一瞬、鮎澤はニヤリと笑った。背筋に悪寒。

「ふ、普段俺を馬鹿にしている奴とか、き、気持悪がってる奴らが、どれだけ粋がっていても、け、結局あいつらは便所雑巾の上に教科書や弁当を広げたりしてるんだと思ったら、さ、最高に面白い」

 もう、本当に気持悪い。如何してこんな事を考えられるのか理解に苦しむ。俺はこんな奴に助け舟を出す為に教師になったんじゃない、そもそも何故こんな奴が高校に入学できたんだ、この国の教育制度はおかしい、間違いなくおかしい。

 俺は半ば放り投げるように、じょうろを地面に置いた、このじょうろだって安全な保障なんて無い。

 なんだか頭が痛くなったような気がして、俺は右手で頭をさすりながら「で、それで?」と返した。

「だ、だから僕はおとといもそれをしようと思って、あ、朝早くに教室に行ったんだ。そ、そしたら」

 鮎澤は一つつばを飲み込んで「女の人が居たんだ」

 俺は少しばかり希望を持って「ばれたのか?」と聞く。

 憎たらしくも、鮎澤は少し誇らしげに「い、いいや」

「ぼ、僕はすぐに隣の教室の隠れてやり過ごした、か、彼女は金魚に餌をやった後、す、すぐに教室を出たんだ」

「で?」

「そ、その後、ぼ、僕はクラスの机を一個一個雑巾で拭いていったんだ、ざ、ざっと一時間くらい」

 あーもう、本当にこいつ死なねえかな、本当にこいつは死ぬべきだ、死ぬべきはこいつだ。

「ぜ、全部の机を拭き終わった後、ぼ、僕はさっきの女の人の事を思い出したんだ。と、とても綺麗な人だったから、そしたら、なんだか急に自分がとてもちっぽけな、ひ、酷く汚い存在な様に思えてきたんだ」

 今更気付いたのか、と俺は心の中で毒づいた。鮎澤は少し目を潤ませて「ぼ、僕だって、皆から好かれたいし、か、カッコよくなりたいけど、仕方ないじゃないか、う、生まれた時に全て決まってしまっているんだから」

 かと言ってそんな事をして良い訳でもないだろうに、と俺は鮎澤を諭そうとも思ったが、彼は続ける。

「だ、だから僕も金魚に餌をやった、ぼ、僕にだってそのくらいのことは出来ると思った、だ、だけど金魚は餌には見向きもせずに、み、水が汚れるばかりだったんだ。だ、だから僕は無性にそいつが憎く、憎たらしくなって!」

「それで、金魚鉢を教室から放り投げたわけか」

 頷く鮎澤、俺は必死に罵倒以外の言葉を考えた。

「まあ、自分を見つめなおす機会が出来たのは良かったな、だけどやる前に少しは考えろ、まさかとは思うが、誰かを怪我させては無いだろうな」

 その言葉で、鮎澤の体が痙攣したかのように震えた、まさか。

「人に当たったのか!?」

「だ、だ、だ、大丈夫、ぼ、僕もすぐに外を確認したから、だ、だ、大丈夫、ひ、人には当たっていない」

 一先ずホッと安心して「そうか、まあ」と言った時、鮎澤は俺の白衣の袖を掴んだ。

「だ、だけど、ふ、二人、お、男が二人、こ、校舎裏から出てきて、き、金魚を拾ってたんだ」

「そ、それはこの学校の生徒か?」

「う、うん、同じクラスじゃないけど、か、顔を見た事はあると思う、せ、先生、ど、どうしよう」

 俺の袖を握る手に、力が入っていた、正直なところ、こんな人間の下の下のような奴に頼られているのは、まるで同じ種類の人種に自分が認定されているような気になって憤りを感じるが、とりあえず今は、鮎澤をあるべき場所に連れて行かなければならないだろう。

「分かった、俺が何とかしよう、着いてくるんだ」

 俺は鮎澤の手を取って、職員用の駐車場へと向かった。

 この男を、警察署に連れて行かなければならない。

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