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北高田義文と、僕

 折檻を想像させる打撃音が、後方から耳に入った。僕は慌てて音の方に振り返る。

 グランドと校舎の狭間、陸上トラックの外側、僕は始め、そこで何が起こったのか分かりやしなかった。何時もかけているメガネをその時はかけていなかったからだろう。

「意外だな」

 僕の隣を歩いていた友人――北高田義文きたたかだよしふみ――は驚いた様子で音のした方向に向かう。

「ガラスはもっと高い音がするもんだと」

 僕のピントがグランドからそこへ向かう義文に合わさった時、何か無数の物がグラウンドで煌いていることに気付く、ようやく顔を出した太陽の光を乱雑に反射していた。そこに散らばっているのは大小さまざまに粉々になっているガラスの群れだった。

 義文の後を追って僕もそれらに近づく、気ぃつけろよと義文に言われ、僕は進路上にあるガラスを買ったばかりのスニィカーではらった。

「金魚鉢だ」と僕は誰に言うでも無く小さく呟いた、小波を意識したのであろう形作られたガラスの欠片が視界に入ったから。そこでようやく、僕は義文の言葉の意味を理解した。確かにあの音は、普段僕らが想像しているガラスの割れる音とはかけ離れていた。

 ようやく頭が働き始めた僕を他所に、義文は何かを探しながらその場を歩き回っていた。お互いに首が据わっていない頃からの付き合いだが、この男は頭の回転が速い所があって、よく僕を一人置いて行ってしまうところがある、最も、彼はその度に僕を待っていてくれるんだけど。

「何を?」

 僕もこう言う事――義文が悪気無く僕を置いていってしまうこと――には慣れていて。置いて行かれない様に彼に聞いた。

「何処かに金魚がいるはずだから」

 僕に視線すらよこさずに答える。普段はそんなことは無いのだが、きっと急いでいるのだろう。

「ほっとけよ」

 僕は少し焦って言った。きっとまた義文の悪い癖が出たのだろう。

「元々、餌になるか、水質のチェックで死んじゃう予定だった奴らじゃないか」

 この高校は、それぞれのクラスが金魚を飼っていた。金魚といってもイメージするような華やかで綺麗な物ではなくて、本当にそこらへんの川に腐るほどいる雑魚に食紅で色をつけた、伝統ある祭事のお零れにあやかることが目的の衛生概念や動物愛護からかけ離れた、あの金魚すくいとか言う子供だましの『出目金では無い方』だ。

 何年か前の文化祭、それまでとは何か違う事をしようとか言って――本当は面接や女の子への点数稼ぎの一環なんだろうが――実行委員が無い知恵を振り絞った結果、小型のビニルプールに錦鯉を放して鑑賞会をするとか言う――良くもまあこれほど優等生な回答をはじき出せる物だ――出し物をやったらしい、その企画そのものは地元の新聞社が取材に来るくらいには成功したらしいが、問題は終わった後だ。

 ビニルプールに錦鯉を放す前に、水質チェック――錦鯉にとっていい環境か否か――のために小さな金魚を放つ、その金魚は終わった後にはどうするかと言うと、プールの水ごと排水溝に捨てるのだそうだ。別に僕はそれに対してどうも思わない、そもそもその金魚共は成長しきった緑ガメや、何の因果か故郷から地球を半周して日本につれてこられてしまった肉食魚の為の餌として、一命数十円単位で売買されている存在なのだ。

 その現実を直視しないのが僕らの先輩だったようで、それなら自分達で面倒を見るからその金魚を譲ってくれと言いだしたようだ。なんとまあ素晴らしいその場限りの善意だろう! その善意の行き着く究極の場所は、日本中のペットショップの餌用金魚の買占めだ。

 もしその先輩とやらが、それらの全ての金魚の面倒を死ぬまで己一人で見たのならばこれは美談だ、文句のつけようが無い。だがしかしその先輩とやらは『マンションで猫を買っているから』と言う理由でそれを放棄し、挙句生徒会に一クラス一匹でその金魚を飼うとか言い出したらしいのだからこの位言っても結構だろう、僕らより何年か先に生まれたとか言う理由だけでそんな奴を敬わなければならないのかと思うと頭が痛い。

 困ったことに、義文にもそんな所がある、要するに自分の目の前で起こっている問題を解決したくて仕方ないのだ、最も、無数の先輩共と違って義文のほうが数段賢いと思うが。

「明人はそう思うかもしれないけど、俺はほっとけないんだよ、こーゆーの」

 そう、北高田義文はこの僕、元刈谷明人――もとかりやあきと――とは全く違うのだ。

 僕は普通だ、何の取り柄も無い、例え何処かで問題が起っていたとしても、それが僕と関係がなければ途端にそれから目逸らし、遥か遠くへと駆けてから、それを正当化する。それに長けていることが取り柄なのだとすれば、取り柄はそれくらいしかない。

 ところが義文はそうでは無い、この爽やかスポーツ少年を辞書でひいて、それに生命を吹き込んだように見えるこの男は、おおよそその通りの性格で、問題があれば解決し、困っている人がいれば助け、教室に迷い込んでしまった蛾を何とか傷つけぬように外へと誘導しようとする、そういう男だ。

 昔、僕は勇気を振り絞って、義文に尋ねたことがある。例えば遥か地球をぐるっと回った所には、その日の食い扶持も稼げぬのに、やれ生命の神秘の魔法だけは良く知っていて、二人が十倍になるような、そんな人間共がいる。彼らを助けることが出来ないのに、計画性の無さと言う百パーセントの自業自得で、不恰好な荷物を抱えている老婆に手を貸すのは、それはすなわち、所謂ところの一つの『偽善』では無いのかと。

 それに答えた時の、義文の涼しい顔は良く覚えている。「別に」彼は自分に自信を持っている、だから今更僕のようなつまらない人間がどうこう言った所で、彼の行動が変わるわけでは無い。でも僕は、彼と友達で無くなるのが怖くて、彼の行動を否定することなんて出来ない、きっと僕は僕に対して自信なんて無いんだろう、だから義文と言う『正解に近い存在』について回ることしか出来ない。

 あ、と義文は小さく声を上げて、泥を跳ね上げながら花壇の傍へと駆け寄る。僕もそれを追った。

 義文は既に腰を落としていて、消しゴムほどの大きさになっている金魚を、そっと右手で掬い上げていた。僅かにだが、金魚の口がパクパクと動いているような気もする。

 彼は少し深めの水溜りに、そっと金魚を放してみたが、金魚は力無く浮くばかりで、その姿はただでさえ質の悪い金魚掬い屋の中でも、更に質の悪い店で、無知な幼児が掬い易さに手を伸ばすことを期待しているかのように放置されている、もう既に死んでしまっているそれを思い浮かばせた。

「もう、行こうぜ」

 まだ金魚が生きているのならばまだ分からないでもないが、死んでしまったものはもうどうしようもない。僕は義文の無造作に、それでいて端麗にセットされている頭に手をやった。

「その鉢を投げた奴がいるんだろう、早く帰らねえとあぶねえよ」

「ひでえ事をする奴がいるもんだなあ」

 その声質が少しだけ変わっていることに気付いて、僕は思わず身震いした。一体如何して、この男はナチュラルになんて奴だ。たった其れだけの事で、涙声になる奴がいるもんか。

 今度は左手で金魚を掬い直して、義文は再び花壇へと向かう。

「埋めるのか?」

「ああ、墓を作ってやらないと」

「必要ねえよ」

「可哀相じゃないか」

 ああ偽善、偽善、これはまさに偽善、偽善の見本市だ。偽善と言う言葉が作られて以来、果たしてここまでこの言葉が相応しい場面などあったのだろうか。

 きっと爪と肉の間に黒い土をびっしりと詰められながら、義文は右手で花壇の土を掘る。

 僕は無性に義文の背中を、思いっきり蹴っ飛ばしたくなった。思いっきり蹴っ飛ばして、何やってんだ、とか、お前は頭がおかしいんじゃないのか、とか、そんなに目立ちたいのか、とか、誰かが見ているかもしれないのに、とか、そういう言葉を思いっきり浴びせてやりたかった。

 でも僕にはそれが出来ない、彼に嫌われるのが怖いから、だからこれまでずっと、彼の言う事には逆らえなかったし、きっとそれはこれからもそうだろう、そんな事じゃダメなことくらい自分でもわかっている、だけど彼から離れてしまえば、僕はもっとダメになってしまうような気がして、ずっとずっと、そこにしがみついている。

 ふと、義文を覗き込むと、彼は目を瞑り、金魚を生めた場所に向かって、手を合わせていた。右手の指先は、やっぱり僕が思った通り、黒い土がびっしりだった。

 僕は震えが止まらなかった、そしてその震えは、彼と一緒に校門を潜って、分かれて家に帰り、ベッドに横になって意識が無くなるまで、ずっと消えなかった。

 そう、僕は、北高田義文と、違いすぎる。


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