不自然に優しい院長先生
次の日も、イレールは花を売り歩いていた。ただ、昨日とは違い、空は青く、太陽が輝いていて、人々の表情もにこやかで、街には幸せが満ちあふれているようだった。そんな中、一人だけ取り残されたかのように、暗い雰囲気でイレールが道行く人達に声をかけていた。
「お花は要りませんか?
お花は要りませんか?」
自分達の会話に熱中していなくても、聞き逃しそうな声だ。
「お花ください」
元気な声が背後から聞こえたため、イレールが振り向くと、そこにはエミールがにこやかな顔で立っていた。
「は、はい。どのお花にしますか?」
おどおどした態度でイレールが答える。
「昨日はごめんね。脅かしちゃった?」
イレールは首を横に振っただけで、何も言わなかった。エミールはさっきのイレールの質問の答えを待っているのかと思い、話を戻すことにした。
「そうだね。これで買えるだけ」
エミールがそう言いながら、お金を乗せた手を差し出した。
イレールはエミールの手のひらに乗せられたお金を見て驚き、その差し出されている手を押し返そうとして、手が触れた。
知らない異性の手を触れてしまった事で、イレールが慌てて手を引き戻す。
「多すぎます。これなら、この籠の花全てお渡ししても、まだお花が足りません」
真っ赤な顔で、イレールが訴える。
「そう。でも、いいよ。その籠の分だけで」
「でも」
「いいんだ。僕が買いたいんだ。」
「エミールは」
名前を呼ぶのが恥ずかしくて、顔を赤らめながらイレールはそこまで言って、言葉を止めた。
「何?」
「エミールはお金持ちなの?」
「はははは。見てみてよ。この服」
エミールはそう言って、一回転して前だけでなく、後ろ姿もイレールに見せた。
「ねっ。お金持ちに見える?
そんな訳ないじゃない。これはイレールから花を買いたくて、ためたお金なんだ。でも、お花なんて買った事がないから、どれくらいで買えるものなのか分からなくて」
エミールはそう言いながら、照れくさそうに頭をかいた。
「だめだよ。そんなお金を使っちゃ」
「だめ。買うって決めたの。
お花を買ったんだから、それでいいじゃない」
そう言うエミールは明るい笑みを浮かべている。でも、その瞳には強い気持ちが映し出されていて、イレールもそれを感じ取った。
「あ、あ、ありがとうございます」
「また、お金がたまったら、買うからね」
エミールのその言葉にイレールはうれしそうにうなずいた。
うれしい。
きっと、これが幸せと言うものなのかもしれない。
滅多にうれしい気分になった事が無いイレールはささやかなこの出来事をすごい出来事に感じていた。
エミールも裕福な訳ではなかったので、花を買ってくれる頻度は少なかったが、毎日のようにイレールの所にやって来てはエミールを励ましていた。
全くいい事が無い毎日が続いていたイレールだったが、その毎日の中に少しだけだったが、温かなひと時が訪れ始めていた。
そんなある日、イレールのかごには多くの花が売れ残っていた。
すでに陽は落ち始めており、家路を急ぐ人影に交じって、イレールはとぼとぼと孤児院へと向かっていた。
今日は売れなかった。
悲しい。
どうしよう。
帰ったら、嫌みを言われるに決まっている。
イレールは孤児院の中で孤立していた。一番の原因は笑顔を見せることも滅多になく、悲しげな表情ばかり見せる暗い性格にあった。話すだけでも鬱陶しく感じられ、仲間はもちろん院長先生からも嫌われていて、イレールは完全な厄介者扱いである。
幼かった頃は怒りを表すこともあったが、大きな子に力でねじ伏せ続けられてからは、すっかり怒りの感情を表す事は消え失せ、残ったのはいつもその表情に出ている悲しげな感情だけだった。
今にも泣きだしそうな表情のイレールが孤児院に戻り、今日の報告をしに院長先生の部屋に向かう。その部屋はエントランスを入ったホールの先にあるT字の廊下を右に曲がった奥にある。イレールはこれから起こる事を想像し、とぼとぼと力無く廊下を歩いていた。
やがて、この建物の中では立派な扉の前にイレールは立ち止まると、少し震えた手でその扉を開けた。
「イレール」
扉を開けた瞬間、中から院長先生の声がした。イレールは手に持ったかごの中が花でいっぱいな事を咎められると思い、すくみ上がったが、その声は優しげだった。
その事に気付き、イレールは何か別の事をされるのではと不審そうな表情で、院長先生の顔を見た。
「今日は特別にお風呂に入って身体も髪のきれいに洗っておいで」
院長先生の口調は今までに聞いた事もない優しいものだった。イレールは混乱し、意味が分からなかった。
「どなたを洗えばよいのでしょうか?
でも、私どうやったらよいのか、分かりません」
おどおどした口調だった。そんなイレールに、普段の院長先生からは想像できない明るい笑い声が返された。
「ほほほほ。何を言っているの。
お風呂に入るのはあなたよ」
「わ、わ、私がですか?
お風呂に入ったら、病気になるのでは?」
お風呂に入り身体を洗うと病気になると信じていたイレールは、これは罠ではと怯えていた。
「大丈夫。身体も髪もきれいにしましょう」
イレールはこれから自分に何が起きるのか分からず、身体が小刻みに震えていた。そんなイレールを見ながら、院長先生は口を開いた。
「でも、確かにそうね。お風呂なんて入った事無いものね。
誰かを付けましょう。
あなたはここで待っていなさい」
そう言うと、院長先生は一度部屋を出て行き、イレールと同じようにここで育てられているシルヴェーヌを連れて戻ってきた。




