イレールの狂気
「怖い」
イレールが震えだした。
「大丈夫だよ」
エミールはそう言いながらイレールの肩を抱きしめた。大丈夫などと言いきる理由など、エミールには無かったし、それどころかエミール自身体が震えそうなくらい怖かった。
しかし、何でも怖がってしまうイレールの前で、そんな素振りを見せるわけには行かなかった。
三人でその光景を眺めていると、しばらくすると大きく広がった闇は突然消えた。
「良かった」
エミールは心の中で思った。そして、イレールに向きながら、言った。
「ねっ。大丈夫だっただろう」
イレールがその言葉に小さくうなずく。
エミールがイレールの肩に手をかけ、窓辺から部屋の中に誘おうとした時、はるか彼方に異変が起きている気配が伝わってきた。
風に乗って聞こえてくる馬のいななき。
それもとんでもない数を感じさせるほどの。
そして、喚声。
それに混じって悲鳴も聞こえる。
三人は再び窓辺に近づき、不安そうな可顔で、外を眺めた。
やがて、遠くの街のあちこちから火の手が上がった。それは闇に覆われていた辺りだった。
「何が起きているんだろう?」
エミールが言う。
「ここは大丈夫かな?」
レリアがエミールにたずねた。
イレールは恐怖からか、身体を小刻みに震わせている。
やがて、炎は各色々な場所に広がっていった。
三人が不安な時を過ごしていると、庭先から甲冑姿の騎士達を従え、駆け出して行くフランツの姿が見えた。
「やっぱり、何かあったのよ。
戦争かな?」
レリアが言った。その時、ドアをノックする音がした。
「はい」
震えているイレールに代わってレリアが返した。ドアを開けて入って来たのは慌てた顔をしたメイドだった。
「敵兵が突然現れ、戦闘が隣の街中で起きているようです。
フランツ様は迎撃に向かわれました。
イレール様は決して外に出ないようにとの仰せです」
「分かりました。
ありがとうございます」
レリアが言った。家のことは心配だが、こんな状況では出れそうにない。
お父さん、お母さん無事でいてね。
レリアはそう思っていた。
その時、窓から外を見ていたイレールの口調が突然変わった。
「見て、見て。あそこの教会が燃えているわ。
きっと、私がいた孤児院も燃えているわ。
燃えろ、燃えろ。
全てを燃やし尽くせ」
エミールは少し驚いた。
きっと、よほど嫌な思い出があるんだろう。
そんなイレールを助けられるのはやはり自分しかないと、エミールは思っていた。どうすれば、イレールの心の明かりになれるんだろう?そう思っていると、突然イレールがドアに向かい始めた。
「どうしたの?」
エミールがそう聞いた時にはイレールは廊下に駆け出していた。
「待って、どこに行く気?」
エミールも後を追ったが、意外にイレールが速かったのと、慣れないこの屋敷の造りにてこずりイレールを見失ってしまった。。
エミールが追いつけないままイレールは屋敷を飛び出した。
窓から顔をのぞかせていたレリアが、遅れて外に出てくるエミールを見つけ、大声で叫ぶ。
「エミール。イレールはあそこよ!」
レリアが駆けているイレールがいる方向を指差す。
「エミール。イレールを止めてよ!」
レリアの声に、エミールは走りながら、一旦レリアの方を向き、うなずいて見せた。
イレールは開いていた門を飛び出し、通りに出た。
通りはすでに騒然としていた。
敵の襲来に迎撃に向かう騎士達。
自宅を目指して急ぐ人たち。
とにかく危険な場所からは遠ざかろうと走って逃げる人たち。
どうすればよいのか分からずただおろおろするばかりの人たち。
イレールはそんな人ごみの中を自分がいた孤児院を目指す。
エミールはイレールを追ってはいたが、追いつくことができていなかった。
イレールが進むにつれ、人気は少なくなって行き、やがて人が全くいない通りに出た。
イレールが暮らしていた孤児院はすぐそこである。イレールの足が速まる。
イレールの目に燃え上がる孤児院が映った。
「燃えている。
燃えている。
全て燃えろ!
ははははは。
ざまあ見ろ!」
イレールはそう言いながら、路上で飛び跳ねている。その瞳には狂気が宿っていた。
ようやく追いついたエミールが思いっきり走り寄ると、イレールを落ち着かせようと、背後から抱きしめた。
抱きしめられたイレールは一瞬びくっとして、固まった。
「イレール。
大丈夫だよ。どんな時も、僕が君を守るから。安心して」
イレールは落ち着きを取り戻したのか、静かになった。
「本当に?
私はずっと一人だった。
誰からも愛されず。
誰からも守ってもらえず。
ずっと寂しかった」
「今は僕がいるじゃない」
エミールがそう言った時だった。
すでにこの辺りは敵に蹂躙され、住民どころか、敵も姿が無かったのだが、通りの向こう側に敵の騎馬隊が現れた。
地面を轟かす馬蹄の音が、恐怖におびえる自分の鼓動が高鳴るかのように、大きくなってくる。
エミールがそれに気づき、視線を向けた。




