10話
「遅い」
ベッドサイドにおいてある時計を、もう何度となく見ているけれどそれほど進んではいない。
早く帰るといったはずの彼から遅くなると使いが来たものの、どの程度遅くなるのかもわからないため、大人しくベッドで待っているというのに、そろそろ日付が変わりかけている。
出そうになるあくびを噛み殺すが、涙が少し滲む。
それからさらに2時間後、ようやく彼の人が訪れた部屋ではしどけない服装の美女が、無防備に眠っているのを発見する。
本当は揺さぶり起こしたいくらいの誘惑だったが、ここでそれをするのは鬼だと必死に欲望と戦った彼の勇姿は誰にも見てもらえることはなかった。
「ん?」
彼を待っていたはずなのにそこからの記憶がちっとも残っていない。
「早いな、もう起きたのか?」
いつもどおり背中から抱きしめられている体勢に、そろりと後を振り向けばずいぶん疲れた表情の彼と目が合う。
「おはようございます」
「おはよ」
そういいながらも顔は眠そうにあくびをしている。
カーテンから差し込む光に、自分が失態を犯してしまったことを知った。
「昨日は遅かったんですね、お体大丈夫ですか?」
「問題ない。それより悪かった。言ったことを守れなかった」
「そんな・・・お仕事ですから」
「そんな服まで着て待っていてくれたお前を思うと寝ているお前をそのまま襲いそうだった」
にやりと悪い笑みを浮かべてみせるゲイルに、自分の昨日の格好を思い出す。
「これは!・・・そのマリ達が・・・その・・・」
恥ずかしさのあまり、慌てながらなんとか理由を言おうとしていると、急に彼が目を少し眇める。
「あまり可愛い顔をするな。今からでもとって食いたくなるだろう?」
「なにをおっしゃって、んっ」
「・・・今はこれだけで我慢しておく。戻ったら今度こそ約束を果たすから覚悟しておけ」
いきなりの口付けは優しいものだったが、不意打ちに真っ赤になったまま言葉もでない。
「行ってくる、昼には馬車の用意が整うようにしておく。それまでに仕度をしておけ」
そういうとさっさと起き上がり、自分の部屋へと戻っていった。
ようやくバクバクとうるさく鳴り響く鼓動が収まれば、いやおうなく自分の今そこにある現実が押し寄せてくる。
今日シェラザードは実家に帰らなければならない。
もう約束が本当の意味で果たされることなんてないのだ。
そう思ったらぽろぽろと涙がこぼれるばかりか我慢しようとしても嗚咽まで口から漏れる。
「おはようございます、ご主人様。・・・ご主人様?」
静かに部屋に入り寝ているかもしれないと小さな声で挨拶をしてくれたのだろう。メイドのマリだった。
「どうなさったのです?!」
いつもは足音一つたてず優雅に仕事をこなしているマリが、慌てた様子でばたばたとベッドの脇に走りより膝をつく。
「なんでもないの、なんでも・・・」
涙を慌てて拭うがそんなことでは誤魔化されてくれない。
「まさか、旦那様が何かひどいことを?」
昨夜自分が珍しいことを言っていたことが思い至ったのかもしれない。急に表情を暗くすると声を潜めて言った。
「いいえ、それは違うわ。それだけは勘違いしないで」
ここでそんな噂を残して立ち去るなんてことは絶対にだめだとその点だけは強く否定する。
「では、どうなさったのですか?」
「なんでもないのよ、・・・でも話せるときが来たら話すわ」
どうあってもひきそうにない、真剣な表情にそう付け足すと聞かれたくないのだと察してくれたらしい。
「わかりました。でもこれだけは覚えておいて下さい。私はグラディス家に雇われていますけど、シェラザード様に心からお仕えています。シェラザード様が嫌がることは決してしないと誓います。ですからその時がきたらきっと話してくださいませ」
「ありがとう。本当に本当に嬉しいわ。でも今は話せないことなの、ごめんなさい」
「謝る必要なんてありませんわ!リュートもきっと同じ気持ちですから、それだけは覚えておいて下さいね」
「えぇ、絶対に忘れないわ」
「ではご実家に帰られるご準備をいたしましょうね、久しぶりのご実家で羽を伸ばしてきてくださいね」
きっと元気付けるために言ってくれた言葉なのに、その言葉にだけは嬉しそうに返すことができなかった。
でも、朝から恥ずかしがったり赤面したり慌てたりと、にぎやかだったせいか逆に少し気分もすっきりして、涙もひっこんだ。昨晩のことは悲しいけれど、今は自分のことを考えなければならない。
あの貴族らしすぎるおばあ様とその孫娘、シェラザードが待っているのだから。




