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00. 恋の病は、患い始めの治療が肝心なのだ

 取り立てて、珍しいことなんかじゃなかった。

 

 ただ、いつものように彼がちょっとばかり浮気をして、それを知った彼女が腹を立てて、言い合いになって。

 彼の頬を引っ叩いた彼女が、泣きながら飛び出して行って―――……。


 * * * *


 彼と彼女―――二人の間では、これまでに何度もあった、ごく当たり前の光景。

 それって、恋人同士としてどうなんだという、良識的な指摘は耳タコなのでご免被りたい。

 だって、仕方ないだろう? 

 片手に花を掴んで歩いていたところに、他の美しい花を見つけてしまったんだから。空いているもう片方の手で、それを愛でるのは当然のこと。むしろ、この世に花園をもたらしてくださった、神に対する礼儀というものだ。

 まあ、このあとしばらく時間を置いて、彼女の元へ改めて赴き、

「ごめん。もう二度と、君を裏切るようなことはしない……だから、信じて」

 とかなんとか言っておけば、

「ほんと? ほんとに、ぜったいだからね」

 瞳に涙を薄らと張った彼女が、愛らしく震える声でそう応えて、胸に飛び込んでくる。

 それで万事解決、ハッピー・エンド。

 なんかもう、「台本でもあるんじゃないのか」と、友人に勘繰られるほどに繰り返してきた、彼と彼女の浮気に関する攻防の展開。

 それに慣れ切ってしまっていたんだと思う。


 だから、その時――――、

 彼女が口にした言葉の意味が、瞬間的に理解出来なかった。

 



 * * * *




「他に、好きなひとが出来たの」


 ………

 ………………

 ……………………………

「――――――はっ!?」

 いま、何て?

「あなたのことが嫌いになったわけじゃないのよ、ウィル。裏切りだって思われても仕方がないって、分かってる。赦してなんて言えないわ。でも、もうわたし、自分の気持ちに嘘が吐けそうにないから……だから、ごめんなさい」

 小さな手をスカートの上できちんと揃え、ぺこりと、深々下げられた彼女の後頭部を目にしたところで、ウィリアムはようやく我に返った。

「あ、え? ……ちょっと待って。一体、何の話をしてるんだい、ジュリエット」

 一瞬意識を飛ばしてしまったせいで、話の展開に置いて行かれそうだった。

 慌てて、でも面や態度には決して焦りを見せず、彼はジュリエットの肩に手を置き、頭を上げさせた。

 顔を見せてもなお、彼女が軽く唇を噛み締めたまま俯こうとするので、何とか気持ちを落ち着かせてやろうと、桜灰色(オーロラ・ヘイズ)のふわふわとした髪を優しく撫でる。

 しばらくして、おずおずとこちらに向けられた、眼鏡のレンズ越しに見る曙色の瞳。

 それに向けて、ウィリアムは安心させるように柔らかく笑んでやった。この角度なら、この笑み方が一番効果的に自分の魅力を活かせると、二十一年間に亘る研究と実地で成果を得ている。完璧なはずだ。

「どういうことなのか、聞いてもいいかな?」

 というか、聞かせろ。吐け。さっさと、速やかに、要点を押さえて、明確に、かつ大切なところは端折らすに!

 相手が男だったら、胸倉を掴んでガタガタゴキバキ言わせてやるところだが、うら若き十七歳の女の子―――それも恋人である少女に、そんな真似は出来ない。彼は純然たるノーマル嗜好驀進中の、礼節正しい紳士である。

 互いに黙したまま、視線を合わせ続けること一分と数十秒。この場に不釣り合いな、明るい小鳥の囀りだけが、間を繋ぐ。

 やがて、観念したのか、思い切ったようにジュリエットが口を開いた。

「……他に、好きなひとが出来たの」

「うん」

 それは、さっきも聞いたっつーの。

 間髪入れずに激しく突っ込みたい衝動を堪え、鷹揚に頷いて見せる。

 キレやすいのは宜しくない。穏便に、かつ有耶無耶に済ますべく、解決の糸口を平和的に模索せねば。

「その男とは、何処で知り合ったんだい?」

 あくまで穏やかな問い口に、彼女もホッとしたのか、華奢な肩から力が抜けたのが分かった。甘い、甘過ぎるよ、ジュリエット。

「昨日、森で」

 胸元できゅっと手のひらを握りつつ、ほんのりと頬を染めて視線を逸らしながらの彼女の答えに、

「……ああ、」

 ―――その時か。

 ふうん、と胸の内で、冷やかに納得の声を洩らす。

 おかしいと思った。

 ここは王都から離れた田舎街。徒広い農園地帯と緑生い茂る森林が見渡す限り広がるだけの、何の変哲もない空っぽな土地だ。観光名所などという気の利いたものも、ありはしない。

 辺境には珍しく、そこそこの人口を抱える中規模程度の街ではあるが、その住人のほとんどが、農業関係者。街にしっかりと腰を落ち着けている者ばかりで、ほぼ全員が顔見知り。外から訪れる人間も、長年付き合いのある業者や商家の人間ばかりで、新しい出会いなんてあったものじゃない。

 ……ああ。改めて考えてみると、なんて恐ろしい場所なんだという気がしてきた。

 だから、

「それって、昨日、君が森で迷って、怪我をしたっていう時のことかな?」

 どこぞの馬の骨が現れたとしたら、その時ぐらいしかないよなと、冷静に理解する。

 ジュリエットは、その言葉にこくんと小さな頷きを返した。

 無意識なのか、彼女はそのままそっと、自分の右足に視線を落す。見れば、そこには丁寧に巻かれた真新しい包帯。

「偶然通りかかったあの人が、助けてくれて。それで……」

 そう言いながら、たかが白い布切れごときを愛おしそうに見つめる目。

「怪我の手当ても、その時にして貰ったんだね」

「ええ」

 けっ、と内心毒吐きながら、ウィリアムは表面上、慈愛と憂いの表情を取り繕いつつ、改めて己の恋人を眺めた。

 母親譲りの丸みを残した童顔と、大きな目。数年前から身長も伸びていないらしきことから、「ちゃんと成長できているのか?」と不安に思うほど、進歩の見られない幼い容姿。……とくに、体型。

 まあ、年頃相応に見えないのは、彼女の身なりのせいでもあるのだろうが。

 ……正直、十三歳から一年前までの数年間、高等学舎で学ぶために王都で暮らしていたウィリアムから見れば、ジュリエットの服装やら髪型やらは何もかもが野暮ったく、全体的にもっさりと地味に感じられて仕方がなかった。

 元の顔立ちはそれなりに愛らしいと言えるが、華やかな都で幾多の美しい花々を手折ってきた身としては、いささか物足りない感があるのも否めない。

 少しは着飾ってみればと、これまでに沢山の洋服やアクセサリーを贈ってみた。だが、それを身に着けている様子も一切ない。はっきり言って、何の努力もせず、いつまでもダサいままで居続ける彼女に、軽くイラついてもいた。

 それでも、今日のジュリエットは―――認めるのは非常に不本意だが―――、ここ近年見てきた中で、一番綺麗だった。

 ふわふわと波打つ桜色掛かった灰色髪は、薄紅に染まった白桃のような頬に柔らかな影を落とし、時代遅れな黒縁眼鏡の向こうに見える夜明けの空色をした双眸は、明星を含んだように、うっとりと輝いている。どこからともなく、暖色系の光の鱗粉とか飛ばし出しそうな勢いだ。

 ……その様は、まさに乙女。

 泣く子も黙る、恋する乙女モード。イッツ・ア・ラブ・ドリーマー。

 目の前に居る自分をそっちのけで、他の男のことを想い起こす恋人にこんな顔をされた日には、世の大多数の青年たちは怒り狂うか、絶望してしまうかのどちらかだろう。


 だが、彼はウィリアム。

 ウィリアム・シェイクスピア。


 今この瞬間も、彼女に向けられる華やかな貌立ちは甘く整い、すべらかな淡い金の髪は、午後の明るい日の光を綺羅やかに弾いているという、完璧な王子風・美青年振り。

 王都では社交界の貴公子(ベタだと言ってはいけない)と呼ばれ、その均整の取れた細身の長身と、御曹司に相応しい優雅な立ち振る舞いによって、麗しき女性たちからの感嘆と賞賛の吐息を、大いに掻っ攫ってきた。

 ほころび咲く花々の美しさを愛で、その花弁の奥に隠された密めきをも堪能する最上の喜び。

 ―――まあ、とどのつまり、ウィリアムは女性という生き物が大好きだった。

 そんな自分が、九年来の恋人―――しかも、親同士が決めたとはいえ、許婚である女の子に振られる!? 冗談じゃないっ!

「ジュリエット、その“彼”は、今どうしてるの? この街に居るのかい?」

「……いいえ、いないわ」

「ああ、勘違いしないでくれ。彼に何かしようとか、そういうことじゃないんだ。ただ、僕の大切な君を任せなきゃいけない男性となると、どんな人間なのか、自分の目で直に確かめておきたいから」

 もちろん嘘だが。

「っ! そ、そんなことしちゃダメよ、ウィルッ! ……わたしと“ロミオ”は、全然そんな関係じゃないんだから」

 お願いっ―――と、顔を真っ赤にして慌てふためきながら、彼女は引き止めるように洋服の袖を握って来た。

 その初々しい姿を、ウィリアムは何とも面白くない思いで見下ろす。ジュリエットには聞こえないくらいの小声で、ぼそりと呟いた。

「―――ロミオ、ね」

 ふーん。それが、馬の骨の名か。

「で、彼は今どこに?」

 聞き出してどうするかって? 野暮なことを訊ねてはいけない。

 本当のことを正直に吐いた方がいいよと、さわやかな笑顔の向こうに黒いものを巧みに隠しながら問う。お気楽にも、彼が背後に漂わせているものには全く気付かない彼女は、しょんぼりと肩を落として応えた。

「……旅を、続けるって。もう、きっと遠くに行っちゃったわ」

「行き先とか、教えて貰わなかったのか? 何のために、旅しているんだとか」

「…………」

「まさか、何も教えられてないの? ……名前以外、本当に何も?」

 黙ったまま、悲しげに首を横に振った彼女を見て、ウィリアムは軽く眩暈を覚えた。

 おいおい、そんな得体の知れない野郎のことをホイホイ好きになるだなんて、この娘はどこまで世間知らずなんだと、内心呆れかえる。

「あのさ、ジュリエット。言いたくはないんだけど……」

 ゆっくりと、慎重に切り出す。


 ―――君は、もう二度と、その男に会えやしない。

 ―――その男だって、ほんの一時の時間を共にしただけの君のことなんか、きっとすぐに忘れてしまうよ。


 無暗な言葉で、彼女を傷つけないように。

 でも、この先、また同じようなことを言い出させないよう、ときどき痛みを感じるくらいの浅い傷を、彼女の心に刻み付けるように。


 ―――君が、そんな男に目移りなんかするからいけいなんだよ? 自業自得だね。


 浮気性な自分のことは棚に上げまくり、そんなことを思う。

 今回だけは赦してあげると、胸の中に仄暗い微かな歓びを灯しながら、ウィリアムは恋人の両肩に手のひらを置き、失恋を諭そうと口を開きかけた。

 しかし、思いがけず強い力で、袖をぐっと掴んだ白く小さな両手が、それを阻んだ。


「―――逢える、って! 

また必ず、絶対に逢えるからって…………彼、言ったわッ!」


 叩きつけられた、苛烈な叫び。

 睨みつけるような、でも、どうにもならない苦しさに瞳を揺らせているジュリエットの視線が、ウィリアムを鋭く刺す。

 発言を遮られた彼は、それまで見せたことがないほどの彼女の迫力に、息を呑んだ。思わず押されて、何の言葉も継げないまま押し黙る。

「待っててくれって頼まれたの。きっと、将来一緒に暮らそうって!」

 ……なんだって?

「絶対に幸せにするから、それまで……って。約束に、キスだってくれたわ!」

「はぁっ!?」

 張り付けていた王子スマイルが外れてしまったことにも気付かず、ウィリアムは声を上げた。

 初対面で、キス!? 奥手も奥手、この超純粋培養のお子様娘にか!?

 現恋人のウィリアムだって、軽いものを片手の回数分くらいしかさせて貰ってないのに!

 愕然とする青年の様子には微塵も気付くことなく、ジュリエットはプルプルと小動物のように震えていた。

「…………約束、してくれたんだもの……」

 絞り出したような声を落し、堪えるように引かれた頤。目元を隠す灰色をした前髪の陰から、ぱらぱらと数滴の雫が落ちるのを見て、ウィリアムは凍りついてしまった。

 女の涙が苦手だとか、そんな青臭いことを言いはしない。だが、小さな頃からの付き合いである彼女の涙には、毎度のことながら思わずギクリとさせられる。

 そうこうしているうちに、すこし泣いて気が済んだのか、ジュリエットはダサい眼鏡を押し上げて涙をぬぐい始めた。

「あ……ごめんね、ウィル。あなたに当たっても、仕方がないのにね」

「仕方がない、って」

 おーい、その言い方ってちょっと……。

 というか、もうすでに第三者要員扱いなのか、僕!? 

 衝撃のあまり、ぐるぐると戸惑っている彼を置いてきぼりに、ジュリエットは目元を拭いながら面を上げ、少しだけ赤くなった目で彼をまっすぐに見つめてきた。

 あ、目と同じように赤くなっている鼻がちょっと可愛いかも、などとくだらないことを考えるウィリアムと正面から向かい合い、彼女は初夏の青空にも似た笑顔で、晴れやかに言い渡す。

「わたし、決めたの。どんなに長くなっても、彼を待つって」

「は?」

「だって、こんなに好きになっちゃったんだもの。辛くっても、頑張るから。絶対に!」

「えっと、え? 頑張っちゃうのか?」

 ちょっと待て。駄目だろう、それ!

「冷静に考えてみなよ! 相手はほとんど、というか全然知らない流れ者だぞ! 君はそれでいいのか?」

「……うん。彼が誰だっていいの。信じてるから、ロミオのこと。いつか、また逢って一緒にいられるなら、それだけでいいの」

「……………………」

「だから、ウィリアムもお幸せにね! オフィーリアさんとずっと上手くいくよう、わたしも祈ってるから。わたしの時みたいに、浮気したりしちゃダメよ?」

「へ?」

 呆気に取られて二の句が継げない。

 そんなウィリアムを余所に、〈幼馴染〉兼〈長年の恋人〉兼〈許婚〉の少女は、とびっきりの笑顔で、呆気なく止めを刺した。

「今まで、ほんとうにありがとう、ウィル。あなたの恋人でいられて、とっても楽しかったわ。一生、きっと忘れないから…………だから、」


 ――――さよなら。




 * * * *




「……オフィーリア、って誰だっけ?」

 ―――ああ、そっか。今回の浮気相手だったな。

 ようやく、麻痺から立ち直って動き始めた脳に、答えを貰った。


 どれくらいの間、ぼうっとしていたのだろうか? 

 野暮ったいジュリエットの後姿は、もうどこにも見当たらない。

「怪我は……大丈夫そうだな」

 薄らぼんやりとしか記憶が残っていないので確かではないが、さっき帰る時、ご機嫌な足取りで走っていたような気がするし。

 そもそも今日、ジュリエットの自宅を訪ねたのは、昨日森で怪我をしたという彼女を見舞い、そのどさくさに紛れて、仲直りをするためだったはずだ。なのに……。

「なんで、こうなった?」

 わからない。

 おかしい。

 不可解だ。 

 いつもとは少々違う展開――――しかし、

「……まあ、そのうち諦めるだろう」

 恋に疎い、夢見がちな女の子によくある、短的な気の迷いだ。

 肩から力を抜いたウィリアムは、溜め息を吐きながらそう結論を出した。

 どうせ、相手はもう会うこともないであろう、どこの誰とも知れぬ男。彼女とどうこうなろうはずもない。

 所詮は、ままごと程度の恋愛ごっこ。こんな些細な戯言で、いちいち慌てる必要はないだろう。

 むしろ、子供っぽい彼女が少しばかり大人になるためのいい機会だと思って、大らかに構えていればいい。そんじゃそこらの、駆け引き経験の浅い、初な素人と一緒にして貰っては困る。

 そう思いながら、ほとぼりが冷めるまで、ジュリエットに会いに行くのはしばらく止めておこうと適当に考えながら、ウィリアムはその場を後にした。




 * * * *




 ―――もしもあの時に戻れるのならば。


 彼は自分を殴り飛ばし、蹴手繰り、引き摺りまわしてでも、自らの不誠実さを改心させたことだろう。

 大農園の跡継ぎなのだから、当然わかっていたはずだ。

 馨しく実を結ぼうとする果実には、より丁寧に慈しみながら手を入れてやることが大切だ―――と。


 黄金色の光を注ぎ、甘く滴る天水を与えるだけでは足りない。

 集る害虫に触れさせることなく、余計な病に罹ることなどないよう、生い茂る緑の葉で幾重にも、余すとこなく包み抱くべきだった。




 ―――恋という病は、患い始めの治療がいちばん肝心なのだ。



作中、登場人物や地名など、某イギリス有名作家さま著の物語から引用させて頂いたものが多数出て参りますが、本物語とは全く無関係です。残念ながら。

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