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天を穿つ黴  作者: 宇白 もちこ
第五章 選択の果て
32/33

5-7

 陽が完全に沈んだ後、林檎とシュンは廃墟を抜け出した。示し合わせたわけではなく、出入り口でばったり会ったのだ。


 林檎はどうしても寝つけなかった。梅も同じく眠れないようだったが、皆が休んでいるのを見守っていたいと残った。木蓮が心配なのもあるだろう。


 木蓮は「これから幸せを感じられる日々が待っているのね」と言い、心底ほっとしたような顔で眠りについた。彼女には、目の前の現実がどれほどのものであるか、まだ見えていないのかもしれない。


 外に出てみると、昼と夜の景色はまるで別物で、その違いに息を呑んだ。昼間とは打って変わって肌寒く、空気が澄んでいる感じがする。


 どういう意図で造られたのか、高く伸びる道路を見つけたので、二人はそこへ向かった。一日中歩いていたため膝が笑っていたが、今日が特別な日であることを思えば、一番高いところに登ってみたくなった。そこに到着すると、林檎は道路の端に腰を下ろし、深園を眺めた。ひんやりしたくすぐったい夜の風が、顔の横の髪をさらさらと撫でる。


「林檎」


 名前を呼ばれ振り返ると、シュンは小さな丸い物を投げてよこした。


「林檎だよ」


 手のひらに収まるほどのそれを、まじまじと観察して、彼の言葉の意味を理解した。これは林檎の果実だ。干からびかけているのか、表面の半分はざらざらしている。


「初めて見た」


「齧ってみなよ」


 林檎はつるつるした面を上にして、前歯を当てた。思ったより硬い。ようやく前歯を突き刺し、はぎ取るように果肉を口に入れる。


 酸っぱい。噛み合わせるたび、皮の触感がさりさりと不快な音を立てる。水分はほとんどなく、紙のような繊維が口の中に残った。特に感想は浮かばない。林檎の表面を眺めていると、表面に黴のような毛が生えていることに気づいた。それを指の腹でこする。虫食いの跡から芋虫の尻が見え、ぞっとして取り落とした。


 突然、深園が光り始めた。HUE-33の照射が再開したのだ。夜の闇の中で、それは強烈な光を放ち、明滅している。


 人命は守られるとのことだったので、深園に残った人たちは無事なはずだ。私たちを近づけないために照射しているのだろう。


 林檎はすべてが終わったことを悟った。安堵の傍らで、改めてユキトとシュンへの深い感謝の念を抱く。彼らの選択と行動がなければ、成し遂げられなかったことだ。彼らはまさに希望の光のような人だと思った。




 ユキトはHUE-33の廊下を、まるで魂が抜けたかのように当てもなく徘徊していた。耳の奥で、二重に響くおぞましい声が、現実を突きつけるかのように繰り返される。ユキトの心は瓦解し、音を立てて暗い底へと落ちていく。瞬間移動という自由の光が、破滅の引き金となるとは。自分の存在とは何だったのか。真実を知る自分だけが人間なのだろうか。いや、自分も彼らと同じ黴なのだ。行き交うHUE-33の人々の中で、自分だけが幽霊になったように感じた。たった一人で誰もいない街をさまよい続けているような孤独。それでも彼は、まだ現実にしがみつこうと手を伸ばした。


 ユキトの仕事を見届けていた彼の残影は、彼の思いを受け取ったように駆け出した。現実に責任を負う必要のない残影の彼は、絶望に打ちひしがれる本体と比べ、身体を動かす程度にはそれに抗うことができた。彼は危険を伝えるため、シュンの元へその身体を走らせるのだった。




 木蓮は、静かに眠りについた。風の匂いが微かに変わり、遠くから聞こえる人の声には、喜びだけでなく絶望や疲労も混じっていた。自由がどれほど過酷なのかを、ようやく彼女は悟り始めていた。隣で眠る梅は、ずっと早くからそれに気づいていたのだろう。彼女の強さを思うと、全身で本物の世界の息吹を感じ取り、困難を超えるため、既に大地を踏みしめて歩き始めているのだろう。


 木蓮の心の中には、かすかな光が灯っている。それは、あらゆる感情をありのままに感じながら、この本物の世界で自らの意思を持って生きられるという、希望だ。彼女は暗闇の中で、その光を模索し続ける。


 林檎はHUE-33の照射から目を守るように、片手で光を覆う。手の甲が赤く縁どられた。


「これで、全てが上手くいった」

 林檎の隣で、シュンは肩の荷を下ろしたように呟いた。


「……そうだね」


 林檎の心には、様々な感情が渦巻いていた。深園を解放したことへの熱い情熱、計画が成功したことへの純粋な歓喜、そして外の世界の美しさへの深い陶酔、しかし、その甘美な感情の波の裏で、遠く耳の裏で反響する誰かの糾弾の声が、冷たい刃のように突き刺さった。それをきっかけに、胸をえぐるような強烈な自責の念が押し寄せる。その勢いのまま、涙がこぼれそうになった。最後に残るのは、底知れない孤独感と胸を締め付けるような苦痛だけだった。林檎は歯を食いしばる。目を背けたい。だが、そうしてはいけない。これが生きていくということなのだと、林檎は知った。


 肌を透かして、自分の血が赤く、力強く脈打つのが見えた。




 石の奥では、無数の林檎とユキトの残影が、強烈な光に包まれる深園の姿を、ただじっと、言葉もなく見届けていた。彼らの瞳は、自分たちが選び取った過酷な真実と、その代償として背負った途方もない責任を、共に受け止めるかのように、静かな覚悟を宿していた。彼らは、自分たちの選択がもたらした光景から、決して目を逸らさなかった。自らの記憶の深奥に、そして人類の歴史に、その全てを刻みつけるように、見つめ続けるのだった。

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