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天を穿つ黴  作者: 宇白 もちこ
第三章 交流
16/33

3-5

 恐る恐る目を開くと、目の前に人が立っていた。二十代半ばくらいの男性だ。眼鏡をかけており、ふわふわした柔らかそうな髪をしている。視線を部屋の中に向けていた彼は、林檎の方を向き、そのまま部屋から出てきた。


「ああ、あの」


 飛びのくように後ずさりしながら、林檎は動転して意味のない声を出した。


 瞬間移動できなかった! なぜ?


「すみません、あの」


 男性は、林檎のことを一瞥すると、何も言わずに歩き去った。林檎はその場に立ち尽くし彼を見送る。

 なぜ、見逃されたのだろう。彼はこちらに視線を向けた。間違いなく私を見たはずだ。


 しばらくその場に突っ立っていた林檎だが、もしやと思い、扉に指を伸ばした。指は扉に触れず、何の感触もないまま扉に沈んだ。


 やっぱり! 私は残影になったのだ。

 うう。心臓に悪い。


 林檎は気を取り直す。本体の方は、無事自室へ瞬間移動できたと考えていいだろう。さっきの男性が無反応だったことを考えると、本体が見られたということもなさそうだ。


 林檎は自分の身体をまじまじと観察しながら、これまで梅を通して交流した残影のことを思う。こんな感じだったのか。正直に言って、残影になる前とそんなに変わったところはない。意識もはっきりしている。


 これまで残影から聞いた話によると、他のほとんどの人間から自分の姿は見えず、他のほとんどの人間のことも同様に見えないらしい。深園のいろんな場所でひとりで立ち尽くす自分のイメージが、林檎の頭の中を巡る。廊下、駅、広場……。そう考えると、世界に独りぼっちになったような気持ちと、世界を独り占めしたような気持ちの両方で、胸がいっぱいになった。二つの気持ちに押しつぶされそうになり、早めに本体に吸収されるべきだと強く感じた。いつになるか分からないが、本体はゆくゆくここへ来る。その時に吸収されることができるだろう。目星をつけていたトイレの掃除用具入れへ、向かっておくべきだろうか。


 ただ本来の目的に立ち返るならば、この状況はチャンスかもしれない。姿が見えないということは、『上』を調査し放題ということになる。しかし、あとで本体に吸収された場合に残影の記憶は消えてしまうはずだ。もし情報を得ることができたら、本体に吸収される前に梅に情報を伝える必要がある。そう考えると、梅のいる深園へ降りる方法を考えないといけない。エレベーターの前で待っていれば、誰かと一緒に降りられるだろうか。


 林檎が考え込んでいる間に、先ほど部屋から出て行ったふわふわ頭の男性が同じ部屋へ戻ってきた。林檎も彼と一緒に部屋に入ることにする。


 部屋の中は、予想と少し異なっていた。これまでは『上』の雰囲気について研究所か病院のような印象を受けていたのだが、その部屋の中は快適で、ゆったりくつろげるような空間だった。ソファ、大きなモニター、冷蔵庫、本棚が目に入る。隅の方には小さなキッチンまである。深園でも見かけるような家具ばかりだ。林檎は、自分の姿が見えないのをいいことに、部屋の中をじっくり見物した。


「はい、ココア」


 男性がソファに向かって缶を投げる。そこに、誰かいるということだろうか。


 ふわふわ頭の男性の方を見ると、彼もこちらを見つめていた。

 林檎は今更になって違和感に気づき、大きく動揺した。


 どうして、私にはこの人のことが見えるんだろう?


「お前、吸収されないの」


 彼はこちらを見ながらソファを指さす。これは一体どういう状況だろう?


「うん、そこにまたコピーがいるんだよ」


 彼はソファの方を見て話す。


「お前、瞬間移動やりすぎなんだよ」


「羨ましいからだめ」


 林檎には、ソファに座っていると思われる人物の声は一切聞こえず、ふわふわ頭の彼が一人で話しているように見える。


 林檎はやっと気づく。残影である私から見えるのは、深園にいる自分自身の本体と、梅のように残影が見える特別な人間だけのはずだ。つまり彼は、梅と同じく残影が見える人間なのだ。だから私は彼の姿が見えるし、彼も私を見ることができている。


 また、彼らは残影のことをコピーと呼んでいるようだ。ふわふわ頭の彼の発言から、彼が林檎のことをソファの人物の残影だと勘違いしている様子がうかがえた。そこから推測できるのは、林檎のことはおそらく白いもやに見えているということと、ソファの人物が林檎と同じように瞬間移動できる人間なのかもしれないということだ。


 林檎はあごに手を当てた。


 もし、私がソファの人物の残影ではないことをこの男性に示したら、彼はきっと興味を持つだろう。そうすれば、コミュニケーションを取れるかもしれない。こちらの情報を渡すことにつながる危険性もあるが、やってみるか。こちらに不利な展開になった場合は、何もしなければいいのだ。相手には、私の表情を窺うことすらできない。


 林檎はソファへ近寄ると、それをすり抜けた。ふわふわ頭の彼から見れば、林檎がソファの人物に吸収されないことがはっきり分かるはずだ。


「おい、それ」


 彼は少し目を見開くと、こちらを指さした。


「別の誰かのコピーみたいだ」


 彼は言葉を止める。ソファの人物が話しているようだ。


「ああ。吸収されない。よく見たら、ユキトより一回り小さいような気もする」


 ユキト!


 林檎は自分の耳を疑った。彼は、ソファに座っている人物のことをそう呼んだのだろうか。深園で出会ったユッキーの本体、ユキトのことだろうか。


「君、俺の方を向いてくれる」


 ふわふわ頭の彼が林檎に向かって言う。林檎は立ち上がり、彼と向かい合った。


「俺の方を向いたまま、肯定する場合は左、否定する場合は右に移動してくれる。君から見た右、左で構わないよ」


 彼は身振りを交え、明瞭な説明をする。既に、残影とのコミュニケーションの取り方は見つけてあるようだ。おそらく、ユキトの残影との間で使ったのだろう。


 林檎は左に大きく一歩動いた。

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