後日談 隣にいるということ
戴冠式直後あたりの話です。
夜の空気は、驚くほど柔らかかった。
王宮内の回廊には、人の気配がほとんど残っていない。
燭台の灯りだけが、静かに揺れている。
まるで、今日という日が静かに終わるのを待っているかのようだった。
長く続いた緊張も、戦いも。
背負ってきた罪も。
選ばなかった未来も。
すべてが、ゆっくりと遠ざかっていく気がした。
それでも、不思議と寂しさはなかった。
胸の奥に残っているのは、波立つことのない静かな湖面のような感覚。
それは確かな温度を持った、やさしい確信だった。
選び直した未来が、ここにある。
あの日、終わりのために生きようと思った。
けれど今は違う。
生きるために、明日を選んでいる。
ゆっくりと歩く足音が、背後から聞こえた。
振り返らなくても分かる。
その気配だけで、胸の奥がわずかに温かくなる。
「……寒くないか」
外套の端が、ほんの少しだけ指先に触れた。
強く引くわけではない。
離れないように確かめるような、不器用で静かな触れ方だった。
「大丈夫です。少し歩きたかっただけですから」
「そうか」
それきり、言葉は続かなかった。
けれど沈黙は重苦しいものではなく、むしろ呼吸を合わせるような静けさを帯びていた。
隣に立つ気配は、遠ざかることも、強く引き寄せることもない。
ただそこにいると確かめるように、外套の端がかすかに触れている。
その小さな接触だけで、胸の奥が静かに温かく満たされていく。
言葉よりも、その静かに寄り添うような触れ方の方が、ずっと多くを語っているように思えた。
窓の外では、夜風がゆっくりと流れている。
王宮を包む静寂の中で、時間だけがやさしく過ぎていった。
「……エリー」
名前を呼ばれて、自然と視線が上がった。
燭台の柔らかな灯りを受けたサイラス様の瞳は、戦いの場で剣を構えていたときの鋭さを残してはいなかった。
そこにあるのは、ただ静かにこちらを見守る色だった。
まっすぐに向けられる視線に、胸の奥がわずかに揺れる。
少しだけ、呼吸を忘れそうになるほどの静けさが流れた。
「……一つ、いいか」
「はい」
ゆっくりと答えると、サイラス様は一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とし、静かに呼吸を整える。
やがて、低く、けれど確かに届く声で言った。
「……ずっと、俺の隣にいることを選んでほしい」
胸が、静かに跳ねる。
それは告白ではなかった。
命令でも、縋る響きでもない。
ただ未来を決める選択を、そっと差し出す言葉だった。
強引に奪うのではなく。
逃げ道を塞ぐのでもなく。
それでも、確かに隣を求める静かな熱だけが、そこにあった。
私は小さく息を吸い、まっすぐに答える。
「もう選びました」
サイラス様の瞳が、ほんのわずかに揺れた気がした。
それは大きな動揺ではない。
けれど、長いあいだ静かに固めていた何かが、音もなく崩れるような、そんな微かな揺らぎだった。
「私は、自分でここに立っています。守られるためでも、罪を背負わせるためでもありません」
胸の奥が、静かに、しかし確かに熱を帯びる。
選ばされた未来ではない。
誰かの犠牲の上にある場所でもない。
私は、私の意志で──この人の隣を選んだ。
「あなたの隣にいたいと思ったから、ここにいます」
言葉を落としたあと、夜の静けさが一瞬だけ深くなる。
燭台の灯りが、ゆっくりと揺れた。
「……だから、離れたいと思ったら、言ってください」
言葉を落としたあと、静けさが広がった。
夜風が、窓の隙間からそっと入り込む。
燭台の炎がわずかに揺れ、影を壁にゆるやかに描いた。
重苦しい沈黙ではない。
ただ、呼吸のように自然な静寂だった。
やがて、サイラス様が小さく息を吐く。
「……そんなことを言われるとは思わなかった」
困ったように、わずかに息を吐くような声だった。
口元がほんのわずかに緩む。
笑みと呼ぶには小さく、それでも確かに柔らかさを含んだ表情だった。
「普通は、離れるなと言うところだろう」
「そうかもしれません。でも、サイラス様はそういう人ではないと思ったので」
小さく笑うと、短い沈黙が落ちた。
燭台の炎が、静かに揺れる。
「……勝手に決めるな」
低く落ちた声に、怒りはなかった。
むしろ、困ったような、不器用な優しさが滲んでいた。
外套の端が、ほんの少しだけ握られる。
強く引き止める圧はない。
逃がさないと縛る意思もない。
ただ、そこにいると確かめるような、静かで控えめな触れ方だった。
まるで──失うことを恐れているのは自分の方だと、言葉にせず告げているようだった。
「どこにも行くなとは言わない……だが」
サイラス様の低く落ちた声は、夜の静けさに溶けるようだった。
「……俺の見える場所にいてほしい」
それは命令ではなく、願いでもなく。
ただ、選択を差し出す言葉だった。
縛るためではない。
けれど、離れてほしくないという想いだけが、静かに滲んでいる。
夜風が、ゆっくりと頬を撫でた。
胸の奥が、静かにほどけていく。
互いの呼吸が触れそうなほどの距離。
時間だけが、ゆっくりと流れ、やがてサイラス様が小さく言った。
「……寒いなら、戻るぞ」
「もう少しだけ」
そう答えると、サイラス様はそれ以上何も言わなかった。
外套の端を握る指も、静かにそこに留まっていた。
街の方から、祭りの余韻が微かに届いてくる。
遠くの灯りは、ゆっくりと揺れていた。
けれど、この場所だけは不思議なほど静かだった。
夜風が、やわらかく流れていく。
不器用で。
優しくて。
ほんの少しだけ、独占の匂いがする。
──それが、愛だと、静かに胸の奥で理解していた。
触れている温度が、ゆっくりと心に染みていく。
ふと、サイラス様が静かに名前を呼んだ。
「……エリー」
「はい」
呼ばれた声に、自然と視線を上げる。
燭台の灯りに照らされた横顔は、戦場の鋭さを持っていなかった。
ただ、静かに、こちらを見ている。
その瞳を見ているだけで、胸の奥がやわらかく温かく満たされていくのを感じた。
夜風が、回廊を静かに流れていく。
やがて、低く落ち着いた声が落ちた。
「……隣にいてくれて、ありがとう」
その言葉は、重くもなく、軽くもなく。
ただ、胸の奥から静かに差し出された本音の形をしていた。
私はすぐには答えなかった。
代わりに、ほんの少しだけ距離を詰める。
外套の端を握っていた指先に、わずかに力がこもる。
呼吸が触れそうなほど、静かに近い距離。
言葉はいらないと、どこかで分かっていた。
夜風が二人の間をゆっくりと流れていく。
──それだけでよかった。
ただこの静けさの中に、自分の居場所があると分かっている。
それだけで胸の奥が、ゆっくりと温かく満たされていく。
未来は、騒がしくなくてもいい。
華やかでなくてもいい。
選び直した道の先に、こうして誰かが隣にいる。
その事実が、何よりも静かで、確かな光だった。
ふと、サイラス様の指先が、外套の端をわずかに引いた。
強く抱き寄せることも、言葉にすることもない。
それでも、確かにそこにあるぬくもりが、静かに距離を溶かしていく。
呼吸が触れそうなほど近いまま、夜の灯りが、やさしく二人の影を重ねた。
そのまま、どちらからともなく、ほんのわずかに身を寄せる。
触れたかどうかも分からないほど、やわらかな沈黙だけが、静かに残った。
それだけで、胸の奥が満たされていく。
ふと、外套の端を握る指先に、静かに力がこもった。
離れない──言葉にしなくても分かる距離のまま、夜はやさしく二人を包んでいた。
夜は、静かに流れている。
その隣に、彼の温度を感じながら──
ここまでお読みいただきありがとうございました。
本編で描ききれなかった静かな甘さを少しだけ加えたくて、後日談を加筆しました。
これにて本作は完結となります。
お楽しみいただけたなら幸いです。
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