最終話、選んだ先の未来へ
「エリザベス、準備はいいか?」
「……はい。お兄様」
静かに名を呼ばれ、私は顔を上げた。
お兄様は一歩こちらへ近づき、確かめるようにまっすぐ私を見る。
その眼差しは、王としてではなく、ただの兄としての優しさを湛えていた。
やがて小さくうなずくと、先に歩き出す。
その背を見送りながら、私はそっとドレスの裾に触れ、乱れがないかを確かめた。
指先がわずかに震えているのに気づき、胸の奥で深く息を吸い込む。
──大丈夫。
そう自分に言い聞かせるように、もう一度、静かに息を吐いた。
「エリー、大丈夫だ。自信をもって」
背後から落ちてきた低く穏やかな声に、思わず肩の力が抜けた。
振り向けば、サイラス様が変わらぬ静かな眼差しでこちらを見ている。
その視線だけで、胸の奥の不安が少し軽くなる気がした。
「……姫さん、おろおろしすぎじゃない?」
間髪入れずに届いた軽い声に、今度は小さく眉を寄せる。
ヴォルは腕を組み、どこか呆れたように肩をすくめていた。
「……仕方ないじゃない。人前……ましてや国民の前に立つのは、初めてなのよ。ありがとうございます、サイラス様」
言い返しながらも、頬がわずかに熱くなるのを感じる。
緊張していることを見抜かれているのが、少しだけ悔しい。
けれど、こうしていつも通りに軽口を叩いてくれることが、どれほどありがたいかも分かっていた。
胸の奥で張りつめていたものが、ほんの少し緩む。
静かに息を整える。
今日という日を、私は一人で迎えるわけではないのだから。
過去を消すことはできない。
罪も、後悔も、選べなかった道も、すべて消えはしない。
それでも──私は歩く。
終わりのためではなく、未来を選ぶために。
──そう、今日はお兄様の戴冠式だ。
このあと、バルコニーに立ち、新たな国王として国民の前に姿を現す。
その隣に、王女として私も立つことになる。
これまで陰に守られてきた私が、初めてこの国の光の下へ出る日だった。
あのレグナートへの“道場破り”のような騒動から、もう一か月が経つ。
クーデター後の混乱は完全に収まったわけではない。
政務は山のように積み上がり、城内にはいまだ慌ただしさが残っている。
それでも今日という日を迎えられたのは、多くの人が眠る時間を削り、汗を流し、守り抜いてくれたからだ。
ようやく──本当にようやく、お兄様は王冠を戴く。
そして私は、その隣に立つ。
◇◇◇
あのあと──
私とサイラス様は、転移魔法で王宮へと戻っていた。
夜の空気は思いのほか冷たく、静かに頬を撫でていく。
つい先ほどまで張り詰めていた玉座の間の空気が嘘のように、回廊には穏やかな静寂が満ちていた。
燭台の灯りだけが揺れ、石床に長い影を落としている。
サイラス様は、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は拒絶ではなかった。
隣を歩く気配は決して遠のかず、むしろ離れまいとするように、私の外套の端をほんのわずかに指先で掴んでいる。
強く引くわけでもない。
ただそこにいると確かめるような、控えめで、不器用な触れ方だった。
胸の奥が、そっと温かくなる。
言葉よりも、その小さな仕草の方がずっと雄弁だった。
婚約者とはいえ、夜も更けていたが、結局私たちは王宮内にある私の私室へと向かった。
お兄様が与えてくれたその部屋で、ようやく腰を落ち着け、サイラス様の口から話を聞くことになったのだ。
前回──私が処刑された件について。
その裏で糸を引いていたのは、レグナート殿下だったという。
ミリアをお兄様方に近づけさせ、私を孤立させる土壌を整えていったのだと、サイラス様は静かに告げた。
「……アレックス殿下が」
その名を口にしても、胸はざわつかなかった。
私に執着していたのだと聞かされても、正直なところ実感はない。
面識があったとは思えない。
先ほどサイラス様が剣を向けていた青年の姿を思い返すも、記憶に残っているのは、淡く光る黄色の瞳だけだった。
その視線は、何かを求めるように一瞬だけエリザベスの背を追い──
やがて、静かに影の奥へ沈んだ。
玉座の間の影の奥で、俯いたまま立ち尽くす人影が見えた気がした。
だがそれは、すぐに闇に溶けていった。
まだお祖父様が国を治めておられた頃、諸外国の同年代の王侯貴族が一堂に会したことがあった。
あのとき、どこかで顔を合わせていたのだろうか。
幼かった私は、ほとんど覚えていない。
それでも──
「今回も、あいつは同じことをする」
サイラス様は、事実だけを淡々と並べた。
怒りも憎しみも滲ませず、ただ冷静に。
「だから、先に斬るつもりだった」
その言葉が落ちた瞬間、ようやく視線が重なる。
逃げ場のない、まっすぐな瞳だった。
「国のためじゃない。正義のためでもない」
そう前置きして、サイラス様は小さく息を吐いた。
その横顔には迷いも昂りもなく、ただ決意だけが静かに沈んでいる。
「エリーを失う未来を、もう一度見るくらいなら、俺は……迷わない」
声が、わずかに低くなる。
それは激しい誓いではなかった。
叫びでもない。
ただ、胸の奥底からすくい上げた本音を、そのまま差し出すような告白だった。
彼は縋らない。
許しも求めない。
自分の選択が正しいとも言わない。
ただ──それでも自分はそうするのだと、静かに示しているだけだった。
その不器用な誠実さが、胸を締めつける。
私はゆっくりと一歩踏み出し、彼の前に立った。
「あなたは、私の不幸を背負う人ではありません。
あなたは──私が生きたいと思った理由で、私が隣に立ちたいと願った人です」
その瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。
それはほんの小さな動揺だったが、それだけでどれほど長いあいだ、自分を責め続けてきたのかが分かる。
「あなたが剣を取ったのは、私を生かすためでしょう」
私は一歩、距離を詰めた。
逃げ道を与えないためではなく、逃げなくていいのだと伝えるために。
「それを、私は否定しません。……でも、あなたが一人で背負う未来は選びません」
胸の奥が熱を帯びる。
けれど、涙は零れなかった。
ここで泣くのは違うと、どこかで分かっていた。
息を呑む気配が、すぐ近くで止まる。
「あなたが罪を抱えるのなら、私も知った上で隣に立つ」
それは同情でもなく、赦しでもない。
彼の痛みを軽くするための言葉ではなく、私自身の選択だ。
「あなたが選んだ道を、私は一緒に歩きます」
守られるだけの存在ではないと決めた日から、ずっと──私は、あなたの隣に立つと決めている。
言葉が尽きたあと、部屋には静かな間が落ちた。
重苦しい沈黙ではない。
ただ、お互いの呼吸だけが確かにそこにあると分かる、澄んだ時間だった。
やがて迷いを振り切るように、けれど急ぐことなく、確かめるように彼の手がゆっくりと持ち上がる。
その腕は、今度こそ途中で止まらなかった。
そっと背に回され、私は静かに包み込まれる。
強く抱き寄せるわけでもない。
ただ、拒まないぬくもりがそこにあった。
触れているだけで分かる──彼はまだ、自分を赦してはいないのだと。
「俺がいなければ、エリーは辛い思いも、寂しい思いも、悲しい思いも……しなかったかもしれない」
低く落ちる声に、胸が痛む。
それは違う、と言葉が喉元まで込み上げた。
けれど私が口を開くより早く、彼はわずかに息を吸って言った。
「……それでも、俺は──エリーの隣にいたい」
飾りも、言い訳もない。
ただ剥き出しの本音。
それだけだった。
私はそっと、彼の胸元に額を預けた。
規則正しく打つ鼓動が、耳元で静かに響く。
その音を確かめるように目を閉じる。
「……ええ」
静かに告げると、自然と笑みがこぼれた。
彼がどれほど迷い、それでも隣に立とうとしてくれたのか──それは言葉にしなくても分かっていた。
「だから、あなたの隣にいます」
選ばされたのではない。
同情でも、義務でもない。
私が、自分で決めて立っている場所。
それが、私の答えだった。
◇◇◇
私との話を終えたあと、サイラス様はそのままお兄様のもとへ向かった。
私は少し距離を置き、回廊の柱の陰からそっと様子を見守る。
割って入るつもりはなかった。
ただ、見届けるべきだと思ったのだ。
朝の光が差し込み、長い回廊を淡く染めている。
その中で向き合う二人の姿は、どこか静かで、張り詰めていた。
「……無事か」
「……ああ」
低く抑えられた声が、わずかに響く。
返されたのは短い一言。
それ以上を語るつもりはないのだと分かるほど、簡潔だった。
それきり言葉は途切れるが、沈黙は重くない。
互いの無事を確かめ、それ以上を問わないという選択が、そこにはあった。
やがてお兄様が静かに息を吐く。
その吐息に、張り詰めていたものがわずかにほどけた気がした。
「理由は聞かない。聞けば、お前はまた一人で抱える……昔からそうだ」
わずかに、お兄様の口元が歪む。
サイラス様の拳が、わずかに握られる。
「……すまない」
「謝るな。ただ──いなくなるなら、俺の見えないところで勝手に死ぬな。お前が戻らなかったら、俺は一生後悔した」
短い沈黙が続いたあと、不意にお兄様が手を伸ばした。
胸ぐらを掴んだかと思えば、そのまま強く引き寄せる。
次の瞬間、二人の距離はなくなっていた。
荒々しい動作とは裏腹に、それは紛れもなく抱擁だった。
「……馬鹿野郎」
低く押し殺した声が、わずかに震える。
叱責の形をしていながら、その実、滲んでいるのは安堵だった。
サイラス様は一瞬だけ戸惑い、それから遅れて腕を背に回す。
「……悪かった」
それだけを、静かに落とした。
余計な言葉はなかった。
言い訳も、事情の説明もない。
ただ、その一言にすべてが込められているようだった。
私は思わず息を呑む。
お兄様の瞳の奥に、光が滲んでいるのが見えてしまったからだ。
それはただ一人の友として浮かべたものだった。
胸の奥が、じんわりと温かく満ちていく。
そのとき、少し離れた場所で控えていたヴォルと、ふと目が合った。
騒ぎに加わるでもなく、壁にもたれたままこちらを見ている。
その表情はいつも通り気怠げで、けれどどこか柔らかかった。
やがて彼は、わずかに口元だけを動かす。
声にはならない、それでもはっきりと分かる形で。
──おかえり。
胸の奥が、静かにほどける。
私は小さく頷き返した。
ようやく、すべてが元の場所へ戻った。
いや──選び直して、ここへ辿り着いたのだと。
◇◇◇
「──エリー、そろそろだ」
サイラス様の声に、はっと我に返る。
目の前の大きな扉はすでに開かれており、その向こうには抜けるような青空が広がっていた。
遠くには連なる山並みが見え、その麓から絶え間ない歓声が波のように押し寄せてくる。
まぶしい陽光の中で、お兄様が振り返った。
王冠を戴きながらも、その表情は今だけは国王のものではない。
その仮面を外したただの兄の顔で、私へと手を差し伸べる。
「来い、エリザベス」
柔らかく、それでいて揺るぎない声だった。
背後から、もう一つの声が重なる。
「いってらっしゃい。姫さん」
振り向かなくても分かる。
あのときと同じ調子で、けれどどこか誇らしげに、ヴォルが笑っているのだ。
この世界が小説の中だと知り、そして回帰したあの日。
残された人生は、ただ贖罪のために使おう──そう思ったことが、すべての始まりだった。
けれど、辿り着いた未来は、物語に記された筋書きとはまるで違っている。
聖女と言われていたミリアはもういない。
アレックスもまた、今回の一件が明るみに出たことで廃嫡となり、王家の名を失ったと聞いた。
本来なら、まだ始まってすらいなかったはずの物語。
その結末は、すでに大きく書き換えられている。
それでも──
私はもう、誰かが用意した運命をなぞるつもりはない。
選ぶのは、私だ。
開かれた扉の向こうから、歓声がひときわ大きく湧き上がった。
「エリー……行こう」
隣で、サイラス様が静かに名を呼ぶ。
その声音には、迷いも不安もなく、ただ並び立つ覚悟だけが滲んでいた。
私は小さく頷く。
王女として。
彼の婚約者として。
──そして何より、自分の意志でここに立つ者として。
ここまでの道のりを思う。
過去も、罪も、選び直した未来も、すべて抱えたまま、それでも前へ進むと決めた。
きっと私は、ひとりではここまで来られなかった。
隣に立つ人がいて、手を差し伸べてくれる人がいて、叱り、笑い、信じてくれる人がいる。
だから、進める。
扉の向こうには、光が満ちていた。
私は一歩、未来へ踏み出す。
あの日、終わりのために生きようと思った。
けれど今は──生きるために、明日を選ぶ。
私の隣には、いつもこの人がいる。
──それだけで、未来は、やさしく続いていく。
その先にある景色を、私はまだ知らない。
それでも私は──歩いていく。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
物語はここで幕を下ろしますが、エリザベスたちの未来は、きっとこの先も続いていきます。
応援してくださったすべての方に、心から感謝を。
ありがとうございました。




