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転生逆行王女の終活 〜悪の王女は二度目の人生で贖罪を選ぶ〜  作者: はな


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71、夜が明ける



 サイラス様は、しばらく何も言わなかった。

 白銀の剣を握ったまま、まっすぐに私を見ている。


 その瞳は静かだった。

 怒りも、悲しみも、後悔さえも映していないように見える。


 けれど──


 その奥に、何かが静かに崩れかけている気配だけは、確かに感じ取れた。


 まるで、長い時間をかけて積み上げてきた何かが、音もなくひび割れていくような、そんな静かな不安定さ。


 ゆっくりと、サイラス様が掠れた声で言葉を落とした。


「……俺は、王太子を斬ろうとした。国を裏切るつもりだった」


 静かに、事実だけを告げる声だった。


「それでも……」


 一度だけ、言葉が途切れる。

 握られた白銀の剣が、わずかに揺れた気がした。


「あなたの隣に立ちたいと……思ってしまった」


 それは、願いを口にする声ではなかった。

 まるで罪を告白するような、硬く閉ざされた響きだった。


 胸の奥が、じんわりと痛んだ。


 この人は、罰を受けることよりも、救われることを恐れている。

 きっと、自分が幸せになってはいけないと、どこかで思い込んでいるのだろう。


 違う、と心の中で静かに否定する。


 私は小さく息を吸い、一歩だけ足を踏み出す。


 追い詰めるためでも、逃げるためでもない。

 ただ、手を伸ばせば届く場所へ。


 強く引き寄せることも、置き去りにすることもしない、ただここにいると伝えられる場所へ。


「サイラス様……それは罪ではありません。あなたは、私を不幸にした人ではなく……私を守ってくれた人です」


 呼びかけると、サイラス様の指先がほんのわずかに震えたのが分かった。


「俺は……人を斬ろうとした」

「はい」


 低く落ちた声は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。


 否定はしなかった。

 この人が背負ってきた覚悟も、苦しみも、なかったことにしたくなかったから。


 だから、ゆっくりと言葉を続ける。


「ですが……あなたが生きることまで、罰にしないでください」


 空間に、静かな沈黙が落ちた。

 燭台の炎だけが、小さく揺れている。


 風はないのに、影が壁をなぞるように細く伸びては消えていく。

 そのゆらめきが、この空間にひとひらの不安定な静寂を残していた。


 サイラス様は、何も言わなかった。

 ただ、喉元がわずかに動くのが見えた。


 飲み込まれた言葉が、胸の奥の深い場所へゆっくり沈んでいくような、静かな仕草だった。


 そして、静かな声が落ちた。


「……俺は、許されない。……許されてはいけない」


 ひどく低く、押し殺した響きだった。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


 やはり、この人はずっと一人で、自分自身を罰し続けてきたのだ。


 私は、ゆっくりと一歩踏み出した。

 もう少しだけ距離を縮め、そして迷わず腕を伸ばした。


 サイラス様の外套をそっと指先で掴み、私はゆっくりと言葉を続ける。


「サイラス様……迎えに来たのは、あなたを裁くためではありません」


 一度息を吸い、胸の奥にある感情をまっすぐに伝える。


「一緒に、帰るためです」


 その瞬間──サイラス様の手から、剣が音もなく床へと落ちた。


 金属が石床を打つ、乾いた静かな響きだけが玉座の間に小さく広がる。


 まるで、張り詰めていた何かが、静かに断ち切られたようだった。


 サイラス様の指先が、わずかに動く。

 けれどそれ以上、何かを掴もうとはしなかった。


 次の瞬間、私はその人を抱きしめていた。


 強く、それでも壊さないように。

 捕まえるためでも、逃がさないためでもなく。


 ──ここにいていいのだと、伝えるために。


 白銀の外套越しに、静かな体温が伝わる。

 その人の体は、ほんのわずかに硬くなっていた。


 まるで、触れられることを恐れているみたいに。


 けれど私は、腕の力を緩めない。

 離れない距離を保つのではなく──この場所に、あなたがいていいのだと。


 言葉ではなく、温度で伝えるために。


 サイラス様の体が、わずかに強張る。

 けれどすぐに、ほんの少しだけ力が抜けた。


「……エリー」


 掠れた声が耳元で落ちたが、それ以上言葉はなかった。


 ただ──胸の奥で、何かが静かにほどけていく気配だけがあった。


 サイラス様の肩が、かすかに震えた。

 抱きしめた腕の中で、静かに呼吸がひとつ崩れるのが分かった。


 ── 長く、息を吸う音。


「……怖かった」


 とても小さく壊れたようなその声は、ほとんど聞こえないほど掠れていた。


「あなたを、失うことが」


 それだけ言うと、サイラス様はまるで耐えるように私の肩に額を預けた。


 涙は見えなかった。

 けれど、腕の中の体温だけが、少しずつ静かに崩れていった。


◇◇◇


 玉座の間には、静かな夜のような沈黙が満ちていた。

 燭台に灯された炎だけがゆるやかに揺れ、その光は世界に残された呼吸のように小さく揺らめいている。


 サイラスは動かなかった。

 白銀の剣はすでに下ろされており、床に届く寸前で、指先から力が静かに抜け落ちたかのように、そこに止まっていた。


 張り詰めていた緊張が解けたあとに残るのは、怒りでも、憎しみでもなく、深く静かに沈んだ感情だけだった。


 ──終わった。


 そう理解した瞬間、胸の奥で、長い時間をかけて積み上げてきた何かが、静かに崩れていく感覚があった。


 怒りはなかった。

 憎しみも、もうそこには残っていない。


 代わりに胸の奥に沈んでいたのは、重く、冷たく、深く底へ沈んだままの後悔だけだった。

 すぐに消えるものではなく、ずっとそこに在り続ける種類の感情だった。


「……俺は」


 掠れた声が、静まり返った空間に落ちた。


 それ以上、言葉は続かなかった。

 何を言えばいいのか、分からなかった。


 守りたかった。

 ただ、それだけだった。


 彼女の隣に立ちたかった。

 笑っていてほしかった。


 傷つけたかったわけではないのに、結果は違ってしまった。

 その事実だけが、静かに胸の奥に沈んでいた。


 自分が立っていた場所が、誰かを追い詰めていたのだと理解していた。


 雨の墓前で、冷たい石に額を押しつけた夜を忘れたことはない。

 あの静寂を、二度と味わうつもりはなかった。


 ──元凶は、俺だ。


 胸の奥で、その言葉だけが静かに繰り返し反響している。


 視界がわずかに滲んだ気がした。

 だが、それを確かめることはしなかった。

 涙を流す資格すら、自分にはないと思っていた。


 だから、落ちてはいけないと、そう強く思っていた。


 そのときだった。


 静かな靴音が、ゆっくりと近づいてきた。

 規則正しく、一歩ずつ、迷いのない歩みだった。


 その音が止まったときも、サイラスは顔を上げることができなかった。


 視線を向けてしまえば、彼女の瞳に映る自分がどんな姿をしているのかを知ってしまう気がしたからだ。


 ──怖かった。


 その理由は、敵意でも拒絶でもない。


 彼女の視線の中に、自分がどんな色で存在しているのか──それを知ることが、ひどく恐ろしかった。


 やがて、視界の端に白い手が映った。

 迷いのない、静かな動きだった。


 その手は、サイラスの外套をそっと握った。

 引き寄せるためでも、逃がさないためでもない。

 ただ、この場所にいていいのだと伝えるような、静かな触れ方だった。


 次の瞬間、温かな感触が胸に触れる。


 ──抱きしめられていた。


「サイラス様」


 すぐ近くで、彼女の声が落ちた。


 静かで、柔らかく、けれど不思議なほど強く心の奥へ届く声だった。

 逃げることも、目を逸らすこともできない優しさを含んでいるように感じられた。


 サイラスの肩が、わずかに震える。


 胸の奥に張りついていた何かが、静かにほどけていくような感覚があった。


「……どうして」


 掠れた声が零れる。

 言葉が続かない。


「俺は……」


 罪を犯した。

 国を裏切った。

 彼女の未来を壊したかもしれない。


 それでも、腕の中にある温もりは離れなかった。


 エリザベスは、強くも弱くもなく、ただ静かに言葉を落とした。


「あなたは、私を迎えに来てくれた」


 その一言が、胸の奥に深く沈んでいくのを感じた。

 違う、と否定しかけて、言葉が出なかった。


「剣を振り上げたのは、私を守ろうとしたからでしょう?」


 沈黙が落ちる。

 否定することはできなかった。


「私は……怖くありませんでした」


 外套を握る手に、ほんのわずかに力が込められる。


「あなたが誰を斬ろうとしていたとしても──それでも、あなたがここにいることの方が、ずっと大事です」


 その言葉が胸の奥に静かに届いた瞬間、何かが静かに崩れ落ちる音がした気がした。


 静寂は変わらない。

 涙は落ちない。

 それでも、呼吸だけがわずかに乱れる。


 長く、深い沈黙が流れたあと。

 サイラスは、ごく小さく声を落とした。


「……俺は、君を幸せにしたいと思っていた」

「それは今も?」


 静かに落とされた言葉に問い返す声に、ためらいはなかった。


「……ああ」


 短く、しかし迷いのない響きだった。


 その一言が胸の奥に届いた瞬間、長く張り詰めていた何かが、音もなくほどけていく感覚があった。


 罪は消えない。

 過去も消えない。


 それでも──


 ゆっくりと目を閉じ、外套を握る手に、そっと指先を重ねた。


 弱く、けれど確かにそこにいると伝えるように。


「……俺は、幸せになっていいのだろうか」


 ほとんど音にならないほど、小さな声だった。


 エリザベスは、ほんのわずかに笑った。

 優しく、静かに。

 まるで、暗い場所に差し込む一筋の光のように。


「私が迎えに来たのは──あなたに、幸せになってほしかったからです」


 その言葉とともに、玉座の間に静かな光が満ちていく。


 白銀の罪が、ひとひらの光に溶けて消えていくような、穏やかな感覚が広がった。


 サイラスの肩から、ゆっくりと力が抜けていく。


 長い沈黙のあと。ただ、小さく。


「……エリー」


 その名を呼ぶ声は、祈りのように静かだった。

 救われた者の、かすかな呼吸のように。






読んでいただきありがとうございます!

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