70、白銀の罪と、ひとひらの光
「──サイラス様」
アレックスの視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
白い光の中に立つ少女の姿を認めたとき、奥底で渇くような色が滲む。
だがそれはすぐに、歪んだ執着の熱に塗り潰された。
その声は、刃が空を裂く寸前に届いた。
澄んだ響きが、張り詰めていた空気を震わせる。
鈴の音のように透明で、けれど確かに彼の名を呼んでいた。
時間が、止まったように感じた。
振り下ろされるはずだった剣は空中で静止し、呼吸もまた胸の奥で凍りつく。
心臓だけが、痛いほど強く脈打った。
聞き間違えるはずがない。
どれほど遠くにあっても、どれほど小さく囁かれても、決して間違えない声。
ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは──
「……エリー」
白い光の中に立つ少女の姿が、はっきりと視界に映る。
喉がひくりと震え、声にならない。
どうして、ここに──
思考が追いつくより先に、胸の奥が強く揺れた。
無事であることは知っていたはずなのに、こうして自分の目で確かめた瞬間、張り詰めていた何かがほどける。
そして同時に、理解する。
来てしまったのだ。
自分のいる、この場所に。
その事実が、凍りついていた心の奥に、微かな温度を落とす。
だが、その安堵は次の瞬間、冷水を浴びせられたように凍りついた。
見られた──
自分が何をしようとしていたのかを。
王太子を斬ろうと、刃を振り上げた姿を。
守るためだとしても、選んだのは殺すという手段だ。
その事実を、彼女の瞳に映してしまった。
胸の奥が、ひどく冷える。
「……どうして、ここに」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
これまで一度も震えなかったはずの声が、わずかに弱さを帯びている。
エリザベスは答えず、ただまっすぐにこちらを見つめていた。
迷いのない瞳だった。
責める色も、怯える色もない。
ただ、決意だけを宿している。
やがて彼女は、ゆっくりと唇を開く。
「あなたを迎えに来ました」
静かなその言葉で、胸の奥で張り詰めていたものが、静かに水底へ沈んでいく感覚があった。
胸の奥で固く凍りついていた決意に、細いひびが入る。
サイラスの喉がわずかに震えた。
けれど、涙は落ちない。
落とす資格はないと、まだどこかで思っている。
それでも──確かに、胸の奥の深い場所が救われた。
もう二度と会えないと覚悟していた。
この手は血に染まり、王太子を斬った裏切り者として国を追われるはずだった。
彼女の隣に立つ資格など、自ら捨てるつもりだった。
そうなる未来しか、残っていないと思っていた。
なのに──
どうしてあなたは、迎えに来たと言うのか。
どうして、こんな自分を。
刃を振り上げたままの男を。
罪を背負おうとしている男を。
それでも彼女は、まっすぐだった。
揺らがない瞳で、迷いなくこちらを見つめている。
その視線は残酷なほど優しく、胸の奥に静かに沈んでいった──
◇◇◇
「……行ってくるわ」
ヴォルにそう言ったときにはもう、静かに光に包まれていた。
掌の中にあるブローチが、鼓動に合わせるように淡く脈打ち、内側から滲むような輝きを放っていた。
まるで、誰かの呼びかけに応えるように優しい光だった。
いつの間にか転移魔法が展開されていた。
自分の意思が先だったのか、それともこの光に導かれる方が先だったのかは分からない。
ただ──行かなければ、と思った。
光がゆっくりと収束し、空間には冷えた空気が漂う中、頬に夜の気配が触れた。
視線を上げた先にいたのは──
白銀の剣を振り上げたまま、誰かに刃を向けようとしているサイラス様の姿だった。
胸が、わずかに跳ねる。
でもそれは恐怖ではなかった。
何をしているのかと問いかけるよりも先に、別の感情が静かに強く満ちていく。
──会えた。……やっと、会えた。
その事実だけが、胸の奥を優しく満たしていった。
そして気づけば、声がこぼれていた。
「──サイラス様」
呼んでしまった。
その声は、意識して出したものではなかった。
胸の奥から自然に溢れ落ちたように、静かに、確かに彼の名を呼んでいた。
その瞬間、振り下ろされかけていた白銀の剣が、空中で静かに止まるのが見えた。
時間そのものが、ふっと呼吸を止めたような感覚が広がる。
ゆっくりと振り返る白銀の人影。
燭台の淡い光を受けて、静寂の中にその横顔が静かに浮かび上がった。
「……エリー」
喉の奥が、きゅっと締まる。
──ああ、本当にサイラス様だ。
無事だった。
会えた。
それだけで胸がいっぱいになって、他のことはどうでもよくなりそうだった。
目の前で剣を構えていたことも。
誰かに刃を向けていたことも。
何よりも今、ここにいることがただ嬉しかった。
──私は、あなたに会いに来たのだから。
その瞳と視線が重なった、その一瞬だけ。
胸の奥で、何かが小さく揺れた気がした。
本当にわずかな、微かな動きだった。
だがそれはすぐに意識の奥へ押し込まれる。
まるで最初から存在しなかった感情であるかのように、静かに、そして確実に封じ込める。
それでも──胸の奥は、ひどく締めつけられていた。
ああ、見てしまったのだ。
サイラス様が、剣を振り上げていた理由を。
誰かを守ろうとしていたのかもしれない。
そう思うことはできる。
それでも──
刃を選んだその姿を、私は確かにこの目で見てしまった。
サイラス様は、静かだった。
怒りも、悲しみも、戸惑いも。
どの感情も表に出さないまま、ただまっすぐに私を見つめている。
けれど──
その沈黙の奥には、何かが深く静かに沈んでいるような気配があった。
まるで光の届かない水底に、一人取り残されているかのような、静かな孤独。
彼がそのままそこに立っている姿を見て、胸の奥がわずかに締めつけられる。
やがて、サイラス様が低く掠れた声を溢した。
「……どうして、ここに」
普段は決して揺らぐことのない声が、ほんのわずかに弱さを帯びているように聞こえた。
私は、小さく息を吸った。
恐怖は、不思議なくらいなかった。
胸の奥にあったのは怯えではなく、静かで揺るがない確信だった。
この人は、私を傷つけたいから剣を振り上げたのではない。
そう、どこかで分かっていた。
だから──まっすぐに、言葉を告げる。
「あなたを迎えに来ました」
その言葉は、救いでも赦しでもなく。
ただ、彼の隣に立つという選択だった。
祈りでも、命令でもない。
ただ、自分がそうしたかったから。
あなたがどんな場所にいても。
あなたがどんな選択をしても。
それでも私は、あなたのところへ来ると決めていた。
「サイラス様」
もう一度、名前を呼ぶ。
その声は、静まり返った空間に、ひとひらの光のように柔らかく溶けていった──
読んでいただきありがとうございます!
あと2話で完結予定です。
明日、最終話を含めて2話投稿予定ですが、掲載時間は前後する可能性があります。
夕方頃の投稿になると思いますので、よろしくお願いいたします。




