69、それでも隣に立ちたかった
「……ひとつ、聞きたいことがある」
低く落とすような声だった。
白銀の刃がわずかに食い込み、喉元に細い赤が滲む。
「なぜ孤立させた。なぜ壊そうとした。なぜ──」
── 処刑台に立たせたのか。
張り詰めた沈黙が落ちる。
だが次の瞬間、アレックスは喉の奥でふっと笑った。
乾ききりひび割れたような音だった。
敗者の強がりではなく、むしろ確信を抱く者の笑み。
血を滲ませながらも、その目だけは異様に熱を帯びていた。
「決まっているだろう……弱らせるためだ。信頼を奪い、孤立させ、心を折る。体も精神も追い詰めた極限で、救いの手を差し伸べる……その瞬間こそが絶対になる」
歪んだ口元が吊り上がる。
囁くように、しかし昂揚を隠しきれない声で言葉を続ける。
「究極の状況で救われてこそ、人は依存する。俺なしでは生きていけないと思い込む。そうして初めて、エリザベスは完全に俺のものになるんだ!!」
「ではなぜ……彼女を殺すまで──」
「は? 殺す? 殺すわけがないだろう」
アレックスは苛立たしげに鼻を鳴らした。
「ミリアにも監視させていた。あの女を追い詰めたのは、精神を折るためだけだ」
回帰前の結末が、脳裏をよぎった。
地下牢で見たミリアの目は、誰かに選ばれたいと願う、空虚な光を宿していた。
アレックスの指示ではない。
ミリアは、自ら動いたのだろう。
壊してから救い、奪ってから与えるという、そういう愛もあるのか。
歪みきってはいるが、確かに執着の一形態。
そして──自分が隣に立っていたからこそ、この男は焦ったのだ。
俺がいなければ。
俺が婚約者でなければ。
ここまで狂わなかったのではないか。
彼女は、ここまで追い詰められなかったのではないか。
胸の奥で、ひとつの結論が静かに固定された。
──やはり元凶は、俺だ。
刃を持つ手が、ゆっくりと持ち上がる。
怒りで振るうのではない。
裁くのでもない。
これは、引き受けるべき責任だ。
この男は変わらない。
これからも同じ理屈で彼女を傷つける。
ならば──俺が引き金なら、俺が終わらせる。
剣を握る手に、迷いはなかった。
ゆっくりと剣を持ち上げる。
白銀の刃が月光を受け、氷のような光を帯びた。
その冷たさは、今の自分の内側とよく似ている。
振り下ろせば、それで終わる。
生かしておく意味はない。
生きているだけで、エリザベスの害になる。
それが事実なら、排除するだけだ。
滲み出た殺気に気づいたのか、視界の先でアレックスの表情が変わった。
床に座り込んだまま、顔色を失い、呼吸を荒げる。
まさか本気で殺すとは思っていなかったのだろう。
先ほどまでの余裕は消え失せ、そこにあるのはむき出しの恐怖だけだった。
歪んだ顔に震える肩。
腰を抜かし、後退ることすらできない姿。
その様子を見ても、心は動かない。
俺はエリーのためなら──どんなことでもできる。
目の前で震える姿を見下ろしながら思う。
情けない、と。
だがその感想さえどこか遠い。
もはや、言葉を交わす意味もない。
これは正義ではない。
ただ、必要だから殺すだけ。
感情は、もう必要なかった。
──終わらせる。
そう判断した瞬間、不思議なほど静かな凪が胸の奥に広がった。
怒りは消えている。
憎しみもない。
正義を振りかざす気もなかった。
目の前の男は、生きている限りエリザベスを脅かす存在であり続ける、と。
そこには理屈も感情も関係ない。
そう判断できてしまった以上、残る選択肢はひとつしかなかった。
──排除する。
そこに迷いはない。
ゆっくりと白銀の刃を振り上げる。
月光を受けた白銀の刃は、氷のように冷たく光っていた。
視界の奥に、別の光景がよぎる。
──エリー
もしこの光景をあなたが知ったなら、俺をどう見るだろうか。
軽蔑するだろうか。
恐れるだろうか。
それとも──
ほんのわずかに、胸の奥が軋む。
だが、その痛みすら押し殺す。
どう思われてもいい。
あなたが生きていられるなら、それでいい。
それでいいと、何度も自分に言い聞かせてきた。
彼女が生きていてさえくれれば、それだけで十分だと。
自分がどうなろうと構わないと。
……そう思っていたはずなのに。
胸の奥に、わずかな痛みが走る。
押し込めたはずの感情が、ひび割れた隙間から滲み出すのを止められなかった。
本当は──
あなたの隣で、生きていたかった。
同じ景色を見て、同じ季節を越えて、何気ない日常を守り続ける未来を、当たり前のように信じていたかった。
──だが、それはもう叶わない。
これから自分は一国の王太子を斬る。
国を裏切り、罪を背負い、名を失う。
彼女の隣に立つ資格も、二度と得られない。
それでもいい、と。
彼女が安全であるなら。
彼女が穏やかに笑っていられるなら。
自分の未来など、どうなってもいい。
──それでいいはずだった。
だが、それでも。
胸の奥で何かが、かすかに軋んだ。
押し殺したはずの願いが、最後の抵抗のように疼く。
呼吸がわずかに浅くなるが、それでも表情は動かない。
揺らぎは、外には出さない。
終わらせればいい。
剣を振り下ろせば、それですべてが片付く。
それだけのことだ。
視線の先では、床に座り込んだアレックスが小さく震えている。
命乞いの言葉を探しているのか、唇だけが無様に動いていた。
情けない、と再び思う。
こんな男に、彼女は人生を壊されたのか。
その事実が、最後の迷いを削ぎ落とす。
静かに息を整え、刃を振り下ろす、その瞬間。
剣が届くより先に、光がサイラスの視界を包んだ。
優しくて、暖かい光が一面に広がった──
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