66、隣に立つために
違和感は、ほんの小さなものだった。
城の廊下を歩くときも、執務室の前を通るときも、朝の光が差し込む窓辺に立つときでさえ──ふと、視界のどこかを探してしまう。
そこにいるはずの人の姿を。
最初は気のせいだと思った。
忙しいのだろう、と。
すれ違っているだけなのだろう、と。
けれど、一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日目の朝を迎えてもその姿を見かけないことに、ようやく胸の奥が小さくざわめいた。
静かな水面に、石が落ちたみたいに。
気づかないふりをしていた波紋が、ゆっくりと広がっていく。
「ねぇ、ヴォル……最近、サイラス様を見ていないわ」
何気ないふりをして尋ねたつもりだった。
ヴォルは一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らす。
「……ここには、いないね」
「え? どういうこと?」
「…………」
問い返すと、彼はわずかに口を開きかけて──閉じた。
その沈黙が、妙に長く感じられる。
いつもなら軽口のひとつでも返してくるのに、今回は違う。
何かを隠すように、ヴォルは黙り込んだままだった。
それ以上踏み込んではいけない気がして、言葉が喉元で止まる。
胸の奥に、さきほどのざわめきがまた広がった。
夕食の席でも、その違和感は消えなかった。
食事が終わる頃、思いきってお兄様にも尋ねてみる。
「……お兄様」
「どうした、エリザベス」
向けられた眼差しは、いつもと変わらず穏やかだった。
けれどその奥に、ほんのわずかな硬さが混じっていることに気づいてしまう。
胸の奥が、小さく波打つ。
「……サイラス様を、最近お見かけしません」
言葉を落とした瞬間、お兄様の手元が止まった。
ナイフとフォークが、皿の上で静かに音を失う。
やがてお兄様は視線を落とし、ゆっくりと息を吐いた。
「……少し、城を離れている」
それだけでは足りない気がして、思わず問いを重ねる。
「いつ、戻られるのですか?」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
お兄様はすぐには答えない。
何かを選ぶように、あるいは飲み込むように、わずかな沈黙が落ちる。
そして、苦いものを噛み砕くように告げた。
「……戻らない可能性も、ある」
その瞬間、世界から音が消えた。
食器の触れ合う音も、遠くの話し声も、すべてが遠ざかっていく。
「……そう、ですか」
自分の声だけが、やけに他人のもののように響いた。
それ以上、何も聞けなかった。
聞いてしまえば、本当にそうなってしまう気がして。
晩餐室を出たあとも、足は止まらなかった。
どこへ向かうともなく歩き続け、気づけば庭を抜け、回廊を渡り、空はすっかり夜に沈んでいる。
──戻らない可能性。
その言葉だけが、胸の奥で何度も静かに反響していた。
戻らない。
──もう、会えないかもしれない。
どうして。
何も言わずに?
問いは形にならないまま、胸の奥をゆっくりと締めつける。
その痛みから目を逸らそうとして──できなかった。
ああ、とようやく気づく。
これは、不安ではない。
寂しさでも、責任でもない。
私は──
夜風が頬を撫で、揺れた髪が視界をかすめる。
それでも、今度ははっきりと分かった。
「戻らないなんて……いや」
胸がぎゅっと締めつけられる。
「そんな未来を、私は受け入れられない」
それは願いでも祈りでもない。
ただ、胸の奥からこぼれ落ちた本音だった。
言葉にした瞬間、胸の奥にあった曖昧なものが、はっきりと輪郭を持つ。
贖罪ではない。
義務でもない。
守られているからでもない。
ただ──
あの人の隣で、同じ朝を迎えたい。
同じ景色を見て、同じ未来を語りたい。
たとえ険しい道でもいい。
迷っても、立ち止まってもいい。
それでも、あの人の隣で歩いていたい。
それだけだった。
「……やっと、気づいたね」
振り向くより先に、声が落ちる。
ヴォルは、いつの間にかそこに立っていた。
月明かりを背に、その瞳はいつもより静かで、どこか柔らかい。
「知っていたの?」
「……まあね」
曖昧に笑ったが、その視線は一瞬だけ遠くへ流れ、そしてゆっくりと戻ってくる。
そして私の顔を見たとき、ヴォルはほんのわずかに目を伏せた。
「──サイラスは、隣国……レグナートの城にいる」
唐突に落とされたその言葉に、息が止まった。
「……どうして?」
「理由までは分からない」
ヴォルは短くそう告げると、それ以上は言葉を継がなかった。
月明かりの下、その横顔はどこか固い。
胸の奥に、ざわりとしたものが広がる。
レグナートの城。
何のために。
どうして、何も言わずに。
思考が追いつくより先に、言葉がこぼれた。
「……嫌な予感がする」
自分の声が、ひどく静かに夜へ溶ける。
どくり、と心臓が大きく鳴った。
あの人は、いつも私のことを考えていた。
守ると、味方だと何度も言ってくれた。
もし、それが──
私に関わることだとしたら。
胸の奥の不安が、確信へと形を変える。
「……迎えに行く。あの人は、わたしの婚約者だから」
それは決意というより、すでに出ていた答えだった。
迷いは、もうどこにもない。
ヴォルが静かに目を細める。
「……そう言うと思った」
その声を聞いた瞬間、胸元に微かな熱を感じた。
視線を落とせば、無意識のうちに何かを握りしめている。
外したはずのそれが、いつの間にか掌の中にあった。
サイラス様から贈られた──ヴァイオレットスターサファイアのブローチが、淡く光を帯びている。
月明かりとは違う、内側から滲むような確かな輝きは、鼓動と同じ速さで脈打つように明滅している。
まるで、呼応するように。
まるで、導くように。
光は静かに、しかし確かに、行く先を示すように強さを増していった──
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