65、愛していると言えなくても
城の廊下は、夜の静寂に沈んでいた。
王城の夜は静かだった。
巡回の気配はあったが、サイラスはそれを避けるように影を選んで歩く。
足音を立てぬよう歩いていたはずが、いつの間にか一つの扉の前で立ち止まっていた。
灯りはすでに落ち、室内からは穏やかな寝息が聞こえている。
サイラスは拳をわずかに握り、そっと目を閉じた。
帰る前に──と、一瞬だけ思いかけて首を振る。
いや。
帰るのではない。
──消えるのだと、静かに決めていた。
音を立てないようにゆっくりと扉に手をかけ、静かに、息を殺すように開いた。
月明かりに照らされた寝台の上で、エリザベスは安らかな顔で眠っていた。
何も知らないまま──彼女は眠っている。
サイラスは一歩だけ、静かに近づいた。
それ以上は踏み込めない。
手を伸ばせば触れられる距離。
だが、伸ばすことはしなかった。
守ると誓った。
誰よりも近くで支えると決めた。
──なのに、守るつもりで彼女から大切なものを奪っていた。
彼女が傷ついた道を辿れば、その先にはいつも自分が立っていた。
婚約という選択も、向けられた刃も、零れ落ちた涙も。
すべてを辿れば、そこに残るのは、ただ自分という事実だけだった。
──「エリー!!」
あの日、叫んだ声が静かに胸の奥で蘇る。
伸ばした手は、届かなかった。
守るつもりで、奪っていた。
「……愛している」
掠れた声が、夜の静寂に溶けていく。
それは彼女に届かせるための言葉ではない。
ただ自分自身を律し、確かめるための独白だった。
──俺は、エリーの幸せに含まれてはいけない。
そう心の奥で繰り返すように呟き、静かに踵を返した。
振り返らない。
振り返ってはいけないと、強く自分に言い聞かせる。
背後で扉が静かに閉じる音がした。
それでも、眠る彼女の穏やかな寝息だけが、胸の奥に静かに残り続けていた。
◇◇◇
城で過ごす時間は、穏やかに流れていた。
王城は忙しく動いている。
お兄様は政務に追われる日が続いているようで、執務室に向かう背中を見る機会が増えていた。
その隣には、いつもヴォルがいる。
「今日もジークは大変そうだね」
「そうね……」
「……姫さん、顔が不細工になってる」
「……そんなこと……ないわ」
そう言うと、ヴォルは揶揄うように小さく笑った。
「嘘。少しだけ、ね」
軽口のようなやり取りに、わずかに頬が緩む。
ヴォルはいつも変わらない。
静かに、けれど確かに私の傍にいてくれる。
お兄様が政務に忙しくしている姿を見るたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
── 一人で、背負わせたくない。
王は国を背負う者だと、頭では理解している。
それでも──胸の奥では、別の想いが静かに息をしていた。
私は、お兄様を支えたい。
王女として、この国の一員として。
王として国を背負う人の隣で、ほんの少しでも力になりたい。
できることは小さくてもいい。
一度にすべてを変えられなくてもいい。
それでも、少しずつでも、前に進みたい。
そう思うようになっていた。
「……姫さん」
「何?」
ヴォルが、ふと静かに声をかけた。
問い返すと、彼は少しだけ間を置いてから言葉を続ける。
「……最近、よく考え込んでるね」
まっすぐで、飾りのない言葉だった。
少しだけ迷い、私はゆっくりと頷く。
「……お兄様を、支えたいって思ってるの」
その言葉を口にすると、不思議と胸の奥が静かに落ち着くのを感じた。
ヴォルは一瞬だけ何かを考えるような顔をしたが、すぐにそれを隠すように穏やかに目を細めた。
それから、責めるでも、否定するでもなく、静かに言った。
「いいんじゃない? 姫さんがそう思ったならそれで」
ヴォルの返事は、驚くほどあっさりとしていた。
思わず目を瞬く。
彼は変わらず穏やかな目をして、私を見ているだけだった。
「姫さんは、頑張ってると思うよ」
「……そうかな」
「ん、でも……」
ヴォルはそこで一度言葉を切り、どこか穏やかに笑った。
「無理はしないこと。……ジークも、同じことを言うと思うよ」
その言葉に、私は小さく息を吐いた。
──優しい人たちだと思う。
王城で過ごす時間は、静かに、確かに積み重なっていく。
お兄様の背中を見る。
ヴォルが隣にいる。
それだけで、心の奥が少しだけ満たされるような気がしていた。
……けれど。
ふと、胸の奥に、小さな違和感が残った。
何かが、足りない──
静かに積み重なっていた日常の中で、ぽっかりと空いたような空白があった。
その正体に気づいた瞬間、心の奥がわずかに揺れた。
──そういえば。
サイラス様を、ここ数日見ていない。
読んでいただきありがとうございます!
物語もいよいよ終盤に入りました。
もう少しだけ、お付き合いいただけたら嬉しいです。




