64、自分の意思で
私の指先が、ぴたりと止まった。
その一瞬で、室内の空気がわずかに張りつめる。
そっと顔を上げると、お兄様の視線がまっすぐに向けられていた。
責めるでも、咎めるでもない。
ただ答えを待つように、静かに――。
「婚約は、形式のままにしておくのか。それとも──お前は、あの男をどうしたい」
お兄様は言葉を選ぶように、わずかに目を細めた。
問いではあるが、圧はない。
ただ、“私の意思”を見極めようとしている。
「どうしたい……?」
いきなりの問いに、思わずそのまま言葉を繰り返してしまう。
するとお兄様は少し複雑そうな顔をしつつも、信頼を寄せている顔をした。
「あいつは、お前が絡むと少し……いやだいぶおかしくなるが……俺はあいつならお前を任せられるとは思っている」
「え!?」
「だが……あの顔……」
唐突に突きつけられた未来の話に、心臓がひとつ跳ねた。
婚約者なのだから当然の話題だったが、胸の奥が落ち着かない。
お兄様は途中から何やら考え込んでしまった。
けれど今、目の前に広がる時間は──
死の恐怖ではなく、自分の意志で描く未来の可能性があることに、思い至った。
指先に力を込め、胸の奥のざわめきを静める。
これまで守られることばかりだったが、今は違う。
自分で、選んでいいのだと──そう思えた。
あの日々の贖罪は、ひとまず区切りを迎えたのかもしれない。
もう、過去だけを見つめている必要はないのだと──そう思いたい。
お兄様に認められたからか、自然とそう思えた。
ゆっくりと顔を上げ、お兄様を見据える。
言葉はわずかだが、胸の奥の熱は確かだ。
「……考えてみます。これから、どう生きたいか」
その声は震えているけれど、希望の光を帯びていた。
ひとつ深く息を吸い、姿勢を正す。
そして静かに一礼して扉へ向かい、歩き出す。
背後で衣擦れの音がかすかに響いたあと、お兄様の声が追いかけてきた。
「……エリザベス」
その呼びかけに、足を止め振り返ると、そこにいるのは王ではなく、ただお兄様だった。
「俺はお前が幸せになってくれれば、それでいい」
命令でも、願望でもない。
ただ、祈りのように静かな言葉だった。
その響きを胸の奥に受け止めながら、私はゆっくりと頷く。
返すべき言葉は見つからない。
けれど、十分だった。
想いは、確かに届いている。
静かに一礼し、扉へと向かう。
背後に残る気配を感じながら、そっと扉を開けた。
廊下へ出た瞬間、ひんやりとした夜気が頬を撫でる。
その冷たさが、火照った胸を少しだけ落ち着かせた。
それでも──
胸の奥では、何かが確かに動き始めている。
贖罪のその先に何があるのか。
今までは考えようともしなかったけれど、今は違う。
──自分の意思で選ぶ未来
その輪郭はまだ曖昧で、触れれば崩れてしまいそうだ。
それでも確かに、胸の奥でゆっくりと形を取り始めていた。
◇◇◇
夜も更けた頃、執務室の扉が静かに叩かれた。
「……入れ」
短い返答ののち、姿を現したのはサイラスだった。
その顔を見た瞬間、ジークハルトは机に置いていた書類から視線を上げる。
「……決めたのか?」
問いは短い。
理由も経緯も求めない。
ただ、結論だけを静かに差し出せと告げる声音だった。
その一言で十分だった。
サイラスはわずかに目を伏せ、口元にかすかな苦笑を浮かべる。
──やはり、気づいていたか。
責める色はない。
ただ、見抜かれていたことへの小さな安堵と、諦めにも似た納得。
「……さすがだな、ジーク……いや、国王陛下と言うべきか」
軽く肩をすくめる仕草には、わずかな敬意が滲んでいた。
「……俺は、行く」
それだけで十分だった。
ジークハルトは小さく息を吐き、しばしサイラスを見据える。
「……国を敵に回すつもりか」
「必要なら」
低く落ちた問いにサイラスはわずかに肩を揺らすも、間を置かずに返る声には迷いはない。
感情も未練も削ぎ落とし、ただ結果だけを受け入れるための覚悟が胸に残っていた。
「俺のことは切り捨ててくれ。国王として、国にとって最善だと思う道を選べ」
淡々と告げるその声音は、まるで自分のことではないかのようだった。
だが、膝の横で握られた拳は白く、わずかに震えている。
それを見逃すほど、ジークハルトは鈍くない。
静かに細められた双眸に、鋭さが宿った。
「エリザベスはどうする」
短い沈黙が二人のあいだに横たわる。
サイラスはひとつ息を呑み、わずかに喉を震わせた。
「……彼女には、何も──」
そこまで言いかけて、言葉が喉で止まる。
違う。
そうじゃない。
頼む。
守ってくれ。
どうか、幸せにしてやってくれ。
込み上げる願いが、胸の奥でぶつかり合う。
だが、それを口にした瞬間、自分の未練を認めることになる。
彼女を不幸へと追いやった元凶が、自分だと知ってしまった今、その傍に立つ資格など、どこにもない。
奥歯を噛み締め、拳を強く握り込む。
白くなる指先が、かすかに震えていた。
「……彼女は、強い」
喉の奥から絞り出されたのは、それだけだった。
それ以上を言えば、崩れるとわかっているように。
ジークハルトは何も言わず、ただ見ている。
逃げ場を与えない、すべてを理解した眼差しで。
「本心を言え」
低く落ちた声が、静かな室内に重く響く。
その一言は、刃のように胸を裂いた。
サイラスの唇が、わずかに歪む。
「……言えば、揺らぐ。だから、言えない」
驚くほど静かな声でそう告げると同時に、彼は一歩、また一歩と後退る。
無意識のうちに、距離を取るように。
近づけば、言ってしまうと知っているから。
「ジーク。どうか……」
再び言葉が途切れ、喉の奥で砕けた音は形にならない。
結局、最後までその名を口にすることはなかった。
「……俺のことは、忘れてくれ」
それは、静かな別れの挨拶だった。
騎士の礼を取り、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳は凪いでいる。
もう戻らないと、すべてを受け入れた者の静けさだった。
ジークハルトは何も言わない。
止めることも、呼び止めることもしない。
ただ、歩き去っていく背中を見送っていた。
扉が閉まる音が、静まり返った室内に低く響く。
しばらく、ジークハルトはそのまま動かなかった。
やがて、机の上に置かれた手がゆっくりと握りしめられる。
──すべては、エリザベスに関わること
あの沈黙も、言えなかった言葉も、胸の奥に押し込めたままの思いも。
わかっている。
それでも止めることはしなかった。
止めたところで、あいつは歩みを変えないだろう。
王命を下せば、形だけは従うだろう。
だがそれは、あいつを壊すだけだと理解していた。
──エリザベスのために選んだ道を、王として踏みにじることになる。
それだけは、できなかった。
「……馬鹿野郎」
低く、押し殺すような声が零れる。
それでも、それでこそお前らしいと思ってしまう自分もいる。
だからこそ。
──死ぬなよ
その願いだけは、王としてではなく、ただ一人の友として胸の奥に静かに押し込めた。
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