61、終わった夜の、その先へ
玉座の間を出たあとも、誰一人として声をかける者はいなかった。
廊下の両脇に並ぶ者たちは深く頭を垂れ、その背をただ静かに見送る。
祝福も、歓声もない。
あるのは重く張りつめた沈黙だけ──それが、今のこの城だった。
やがて背後で重厚な扉が閉じられる。
低く鈍い音が石壁を震わせ、その余韻が消えるころ、彼はようやく執務室へと足を踏み入れた。
その瞬間、空気がわずかに変わる。
静まり返った室内には、人の気配よりも紙とインクの匂いが満ちていた。
高窓から差し込む淡い光が、山のように積まれた書類を静かに照らし出している。
執務机の前まで進み出た近衛隊長が、音もなく一礼する。
「陛下、ご命令を」
その声は揺るぎなく、すでに新たな王を仰ぐものだった。
わずかな沈黙が落ちる。
ジークハルトは机に手をつき、指先に残る微かな震えを押さえ込むように、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に溜まっていた緊張が、形を持たぬまま吐き出されていく。
「まずは、報告を」
低く落とされた声ののち、室内の空気は再び張りつめる。
報告は途切れることなく運び込まれた。
拘束者の確認、兵の再配置、各門の封鎖状況、貴族派閥の動向。
ひとつひとつに短く指示を下し、書類に目を通し、署名を重ねる。
夜は、気づかぬうちに更けていった。
高窓の外に沈んでいた茜はやがて群青へと変わり、室内を照らしていた燭台の灯りが、机上の影を長く伸ばす。
誰もが疲労を隠していたが、弱音を吐く者はいない。
新たな王が、そこにいるからだ。
やがて最後の報告が終わり、扉が静かに閉じられる。
ようやく、完全な静寂が訪れた。
窓の外では、夜がほどけはじめている。
淡い光が空の端を滲ませるころ──
ジークハルトは、初めて一人になった。
人払いを終えた空間は、先ほどまでの緊張を嘘のように飲み込み、ただ淡く差し込む光だけが時の流れを示している。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、こめかみを押さえた。
王として張り詰めていた意識が、遅れて身体を軋ませる。
震えはない。
後悔もない。
選んだのは自分だ。
迷いは、あの玉座に置いてきた。
それでも──
「……これで、ようやく」
誰に向けるでもない呟きが、静寂に溶ける。
脳裏に浮かぶのは玉座でも王冠でも、政変の光景でもない。
ただ一人の少女の顔だった。
机の引き出しを開け、便箋を一枚取り出した。
白い紙が、静かな光を受けて淡く浮かび上がる。
筆を取った指先が、ほんのわずかに止まった。
王として書くのか。
それとも、兄として書くのか。
胸の奥をかすめた迷いは、一瞬にして押し込められる。
いま選ぶべき立場は、分かっている。
やがて筆先が紙に触れ、静かな音を立てて走った。
──終わった。
それだけを書く。
短い一文。だが、そこに込めるべきものはすべて含まれている。
──王城は安定している。
──お前はそちらを優先しろ。
──目処が立ったら戻っておいで。
淡々と、無駄なく、必要なことだけを並べていく。
そこまで書いたところで、不意に筆が止まった。
これで十分だ。
王としては。
だが──
本当は、書きたい言葉が他にある。
無事でいろ。
危険なことはするな。
早く顔を見せろ。
胸の奥に浮かぶのは、そんな当たり前の願いばかりだった。
だが、それらを紙に落とすことはしない。
王となった以上、私情を滲ませるわけにはいかない。
甘さは、立場を揺らがせる。
それでも──
わずかな沈黙ののち、ジークハルトは再び筆を取った。
迷いを断ち切るように、一行だけを書き加える。
──怪我はない。心配するな。
簡潔で、そっけないほどの言葉。
だがそこに込められた想いを、彼自身がいちばん理解している。
書き終えると、しばらく紙面を見つめたまま動かなかった。
「……お前は、怒るだろうな」
苦笑にも似た呟きが、静かな室内に落ちる。
知らせなかったことを。
巻き込まなかったことを。
きっとあの少女は、真っ直ぐな瞳で問いただすのだろう。どうして、と。
それでもいい。
「……それでいい」
小さく息を吐き、ジークハルトは便箋を丁寧に折り、封をした。
指先に残るわずかな温もりを確かめるように一瞬だけ留まり、それから窓辺へと歩み寄る。
そのとき、窓辺の光がふっと揺らいだ。
差し込んでいた朝の陽が歪み、空気がかすかに震える。
次の瞬間、淡い金の粒子が集い、渦を描くように凝縮していった。
やがてそれは一つの形を成す。
羽ばたくたびに細かな光が零れ、輪郭は現実のものよりもわずかに透き通っている。
生き物でありながら、生き物ではない。
主の意志によって顕現する、ただ一体の使い魔。
金の瞳が、静かにジークハルトを映す。
大きな翼をゆるやかに畳み、主を待つように佇んだ。
その頭に手を伸ばし、短く撫でた。
「頼んだ」
命令は簡潔に、だがそこに込める信頼は深い。
ワシは一度だけ低く鳴き、次の瞬間には力強く翼を広げた。
風を裂き、迷いなく青空へと舞い上がり、光を散らしながら空へ溶けるように飛び立った。
その姿を、しばらく見上げる。
そこにあるのは王の威厳ではない。
ただ、遠く離れた妹を想う兄の眼差しだった。
「……戻ってこい、エリザベス」
呟きは風にさらわれ、空へと溶けていく。
やがて視線を下ろしたとき、表情はすでに切り替わっていた。
机へ戻り、山積みの書類を手に取る。
「……待たせたな。入れ」
響いた声は、揺るぎない王のもの。
それでも胸の奥には、確かな安堵とわずかな期待が静かに灯っている。
再会は、そう遠くない。
◇◇◇
(……終わったって何が?)
「ジークが、王城を掌握した」
一瞬、理解が追いつかない。
「……どういう、ことですか……?」
「血は流れていない。主要な派閥は拘束済み。王城は安定している」
その声に、焦りはなかった。
まるで、最悪の事態も織り込み済みだったかのように。
ヴォルもまた驚く様子はなく、ただ小さく頷くだけだ。
──ああ。二人は、知っていたのだ。
「……どうして……どうして、教えてくれなかったの?」
「どう転ぶか分からなかったから」
「……余計な心配をかけたくなかった。俺も、ジークも」
その言葉に、胸が少しだけ熱を持つ。
守られたのだと分かる。
でも同時に、ほんのわずかな寂しさが滲んだ。
その場にいなかったこと。
何も知らされなかったこと。
守られたのに、なぜか置いていかれたような気がして。
「……私、そんなに頼りない?」
少しだけ、拗ねたくなる。
けれど、本気で怒ることはできない。
背負わせたくなかったのだと、その不器用さが分かるから。
そんなお兄様が、今どうしているのか心配になる。
そのとき──
開け放たれた窓辺に一羽のワシがいるのに気づいた。
朝日を受けて輝く翼は、まるで光そのものを纏っているようだった。
金の瞳が、まっすぐに私を見る。
その視線を、私は知っている。
「……お兄様の」
サイラス様もヴォルも動かない。
ただ静かに、成り行きを見守っている。
ワシはゆるやかに歩み寄り、差し出した腕にとまった。
重みが伝わる。確かな温もり。
足に結ばれた小さな筒を外すと、見慣れた筆跡がそこにあった。
ーーー
終わった。
王都は安定している。
お前はそちらを優先しろ。
目処が立ったら戻っておいで。
怪我はない。心配するな。
ーーー
短い言葉なのに、不思議と胸の奥がほどけていく。
読み終えてもなお、ワシは飛び立とうとせず、ただ静かにその場に留まっていた。
金の瞳がまっすぐにこちらを映している。
急かすでもなく、離れるでもなく──まるで、私の答えを待つかのように。
その視線から目を逸らせなくて、私はそっと手を伸ばした。
指先が触れた羽根は、朝日に温められていて、思っていたよりもずっと柔らかい。
掌に伝わるそのぬくもりが、手紙の向こう側にいる人の体温のように思えて、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
「……無事でよかった」
小さく呟くと、ワシは静かに目を細めた。
その仕草はどこか穏やかで、まるで応えるようだった。
次の瞬間、ゆるやかに畳まれていた翼が大きく広がり、光をはらんだ羽ばたきが朝の空気を震わせる。
風が頬をかすめ、長い羽根が陽光を反射した。
ワシは迷いのない軌道を描いて、澄み切った青空へと舞い上がっていく。
高く、さらに高く──やがて一点の影となり、そのまま朝の光の中へ溶けていった。
視界にはもう何も残らない。
けれど、確かに届いたのだと分かる。
紙を握る指に、知らず力がこもる。
ようやく息をつけたはずなのに、胸の奥に残っているのは安堵だけではなかった。
静かに、しかし確かな熱が、そこに灯っている。
「……どうして、言ってくれなかったの」
「……止めたでしょ?」
小さく零すと、ヴォルが苦笑する。
否定できないけど、それでも。
「……それでも、知っていたかった」
守られたくなかったわけじゃない。
ただ、私にできることがあるならそっと支えたいと思った。
沈黙のあと、私は顔を上げる。
「復興の目処は立っているわ。港も動き始めた」
あの場所は、もう自分にとって終わった場所だと思っていた。
二度と立つつもりはなかった。
けれど、思い返せば──贖罪を終える前に、命が尽きるかもしれないと覚悟していたから、戻ることは最初から数に入れていなかったのだ。
それでも、今の私は迷わない。
胸の奥に確かな熱を感じながら、静かに息を整える。
「……あの城へ戻りましょう」
手に握る意志は、ずっと決まっていたわけではない。
でも今この瞬間、私は数に入れていなかった未来を、自分の意志で選ぶ。
サイラス様の視線が、わずかに揺れる。
ヴォルは何も言わず、ただ静かに頷いた。
夜明け前の空気は、冷たい。
でも胸の奥には、確かな熱があった。
それは、置いてきたはずの未来だった。
──考えもしなかった未来。
でも、今の私なら自分の足で歩き出せる。




