58、王太子の覚悟
最初に姿を消したのは、フェルカ伯爵だった。
表向きには「監査中」とされていたが、数日後、王都の掲示板に静かな通達が貼られる。
──フェルカ伯爵家、爵位剥奪。
──財産凍結。
──国の監理下に置く。
淡々とした文字だけで、かつて権勢を誇った伯爵家の消失を告げていた。
理由は簡潔だった。
不正会計。
虚偽報告。
領民保護義務違反。
文面は冷たく、誰一人反論の余地を与えない。
曖昧な罪状ではない。
数字と署名だけが並ぶ、紛れもない事実。
そして、三日後。
標的は商会──王妃と深く結びついた献上商へ移った。
王家資金の不正流用への関与。
王女予算の虚偽請求。
王女の名が掲示板に現れると、人々は立ち止まり、ざわめきが一瞬、凍りついた。
だが、すぐに次の行で空気は変わる。
「王女エリザベス・ヴァレンディアは、いかなる関与も認められず」
当該契約は、王妃の侍従名義にて締結されていた。
人々は思わず息を呑む。
王女の潔白──それが示された瞬間だった。
その知らせは、街の隅々まで届いた。
市場では行き交う人々の足が止まり、顔を見合わせる。
広場の噴水の周りでは、荷車を押す商人たちが小声で話す。
「聞いたか、王妃の商会が……」
「本当か? あの噂は何だったんだ?」
城下の掲示板にも通達が貼られ、人々の視線が集まる。
目を細め、文字をなぞる者もいれば、息を呑む者もいた。
ざわめきは波のように広がり、普段の喧騒に静かで確かな不安が混ざる。
王都の空気は、ひそやかに変わりつつあった。
街の片隅で囁かれる噂は、次第に確信へと変わっていく。
王妃の側近たちは次々と姿を消した。
逃げ道は、完全に塞がれる。
その翌週には、孤児院の監査官までもが対象となった。
叫び声はない。
抗議もない。
ただ、静かに、事実が積み重なっていく。
爵位も役職も、屋敷の旗も──すべてが静かに消えた。
王都の貴族たちは、少しずつ気づき始めた。
これは偶然の連続ではない。
計画だ。
しかも感情では動いていない。
すべてが書類上で処理される。
城に響くのは、ただ印章を打つ乾いた音だけ。
──トン。
──トン。
乾いた音が、静まり返った城に響く。
王太子の署名だ。
怒りでも、復讐でもない。
ただ、正すべきものを正す──
その意志だけが、そこにある。
夜、王城の執務室。
近衛隊長が静かに声を落とした。
「……殿下、これで主要な関係家はすべてです」
ジークハルトは、机の上の書類から目を上げない。
「国王の署名付き許可証は……」
「全て確保済みです」
そこにあるのは、父の関与を示す揺るぎない証拠。
決定打だった。
「保管を」
近衛隊長の震える声が、その事実の重みを強める。
だが、ジークハルトはまだ動かない。
まだ、王を断罪するつもりはない。
それでも、王都の空気は確かに変わっていた。
民衆の間に、小さなさざ波が広がる。
「王太子が動いているらしい」
「秩序を正している、という噂だ」
「静かに、しかし確実に」
言葉は控えめだが、確かな実感として人々の胸に落ちる。
王妃の茶会では、客の数が減った。
国王の謁見も進言の声が以前より少なくなり、室内は静けさだけに包まれる。
街を歩く民は、噂を交わす声をひそめ、商人たちも警戒するように足早に通り過ぎる。
味方はいない。
だが、当の本人たちはまだ気づいていない。
まだこれを「地方の問題」と思っている。
──その認識が覆される日が、静かに迫っている。
夜は深く更けていた。
王太子の執務室にはまだ灯りが残る。
机の上には、積み上げられた書類が静かに存在感を放つ。
フェルカ伯爵の裏帳簿。
孤児院の不自然な死亡報告。
握り潰された告発文。
そして──国王の許可印。
すべてが揃っていた。
否定の余地は、もうない。
「……」
ジークハルトは目を閉じる。
最初はただ正すつもりだった。
地方の腐敗を断ち、秩序を戻す──それだけでよかった。
父が知らなかったなら、伝えればいい。
母が誤解しているなら、正せばいい。
だが、違った。
知っていた。
すべてを黙認していた。
自らの保身と体面のために。
机の端に、小さな箱が視界に入る。
祖父の遺品。まだ、開けていない。
封蝋には、王の印ではない。
祖父個人の家紋──
公ではなく、自分宛。
王ではなく、祖父からの。
その重みが胸にずしりとのしかかる。
これを読めば──後戻りはできないだろう。
まだ十八歳だ。
父を断罪する覚悟など、本来この年齢にあっていいものではない。
指先が、封蝋に触れる。
一瞬、時間が止まったかのように息も忘れる。
だが、覚悟を決めるように、ゆっくりと封蝋を割った。
乾いた音が、静まり返った部屋に大きく響く。
便箋をそっと広げると、祖父の筆跡が揺るぎなく刻まれていた。
力強く、迷いのない文字。
一文字ごとに、祖父の意思と重みが伝わる。
──王とは、孤独なものだ。
──誰も正解を教えてはくれぬ。
──だが、一つだけ揺るがぬ真実がある。
──王とは、責任を引き受ける者だ。
ジークハルトの視線は、最後の一文で止まる。
胸の奥に、冷たくも確かな重みが落ちた。
──もし、この国が道を誤るのなら、お前が正せ。
夜は深く、城は静まり返る。
胸の奥で、何かが静かに落ちた。
恐れでも、怒りでもない──ただ、理解だった。
祖父は何も命じてはいない。
だが幼い頃から静かに受けてきた教育が、今の自分を支えている。
王として、国を背負う者として、決して迷わず進むこと──
その教えだけが、胸にしっかり残っていた。
「……承知いたしました」
その声は誰に聞かせるでもなく、静かに漏れた。
指先で手紙を丁寧に折り、懐へと滑り込ませる。
冷たさも温もりもない紙だが、その重みは確かに胸に伝わる。
もう、迷う必要はない。
父を討つのではない。
ただ、王としての道を正す──それだけだ。
灯りをそっと吹き消す。
闇が執務室を包み込む中、ジークハルトは静かに立ち上がる。
その夜──王太子は、王として歩む覚悟を、静かに胸に刻んだ。
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