56、明けない夜
ウェルザンの夜は、嘘のように明るかった。
昼間まで息の詰まるような空気に覆われていた通りに、今は無数の灯りが揺れている。
解放された人々が広場に集まり、義賊たちと肩を組み、酒樽を囲んで笑っていた。
泣きながら笑う人。
互いの無事を確かめ合う人。
子どもを抱きしめ、空に感謝を捧げる人。
こんなふうに笑う街を、私は知らなかった。
その喧騒を、少し離れた場所から眺める。
広場の中心では、義賊たちが持ち前の陽気さで場を盛り上げている。
誰かが太鼓を叩き、誰かが即席の歌を叫び、酒が回れば肩を組んで回り出す。
けれど私は、その輪の中には入らなかった。
「凄い騒ぎ……」
「……そうね」
隣でヴォルが小さく呟く。
その声も、広場を満たす笑い声に溶けていく。
夜を震わせるほどの歓声。
こんな光景を、私は知らなかった。
──眩しい。
「……行かなくていいの?」
「私はいいわ」
私は首を横に振り、もう一度広場を見る。
フェルカの支配から解放されたのは、私の功績ではない。
あの人たちが、最後まで折れなかったからだ。
広場の喧騒は、まだ収まる気配がない。
酒が回った男たちの声が、あちこちで弾ける。
そのひとつが、不意に耳に届いた。
「見ただろ!? あの嬢ちゃん!」
「嬢ちゃんって……あの顔隠してた人か?」
「ああ! 血まみれのガキ抱えてさ、光らせたんだよ、手を! あれはまさに聖女様だ!」
「そうなのか?でも治癒魔法なんてできる人はそうそういないぞ?」
「いんや、あれは本物だった。俺ぁこの目で見たんだ」
「神様はちゃんと見てたってことだなぁ!」
──聖女様。
その言葉が、喧騒の中から浮かび上がり、足がほんのわずかに止まる。
横からの視線に気づきながら、それでも私は前を向いたまま。
「……違うわ」
「マイザーでも似たようなこと言われてた。慣れたんじゃないの?」
「……慣れるものじゃないわ」
からかう声に、思わず顔をしかめる。
そのまま視線を逸らし、わずかに歩調を速めた。
背後で、ヴォルが肩を竦める気配がした。
「俺は聖女より、そっちのほうが厄介だと思うけどな」
「どっち?」
「何でもない顔して、勝手に助けに行くとこ」
「……勝手じゃないわ……私にできることをしただけよ」
視線はまだ祭りの灯りに向いたまま、それだけ、と付け足す。
言い返しながら、どこか力が抜けているのを自分でも感じる。
ヴォルは、ふっと笑った。
呆れたように、でもどこか柔らかく。
「それを勝手って言う。放っておけないんだろ。……分かってる」
低く落ち着いた声が、からかうように響く。
けれど責める気配はなく、最後の一言だけがほんの少しだけ静かだった。
まるで──仕方ないな、とでも言うように。
「そもそも、私はそんな立派なものじゃない」
──私はただ、償いたいだけだもの。
ヴォルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、少しだけ横に視線を逃した。
「サイラス様は?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「仕事。捕らえた連中の後始末」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥に小さな波が立つ。
サイラス様は、いつもそうだ。
気づけば一歩、前にいる。
手を伸ばせば届く距離のはずなのに、なぜか追いかける側になっている気がする。
それでも──今、この灯りの中に彼がいないことが、ほんの少しだけ寂しかった。
夜風が、祭りの匂いを運んでくる。
遠くで歓声が弾け、空へと溶けていった。
私はその光景を、静かに目に焼きつける。
前回の人生では、決して目にすることのなかった光だった。
失われたはずの未来が、いまは確かにここにある。
胸の奥が、じんわりとほどけていく。
それなのに。
満ち足りているはずなのに、どこかひとつだけ足りない。
その理由を考えたくなくて、私は視線を逸らした。
──気のせいだ。
そう言い聞かせるように、私は夜空から目を逸らした。
「帰りましょうか」
ヴォルが頷き、私たちは喧騒を背に夜の通りへと歩き出した。
振り返らなくても分かる。
祭りの灯りが、まだあたたかく揺れていることを。
◇◇◇
王都へ送られるはずの報告書を前にサイラスは机に向かっていた。
フェルカの顔が脳裏に浮かぶ。
捕らえられたときのあの目は、怒鳴り散らしながらもどこか焦りが滲んでいた。
状況を掌握している者の目ではない。
帳簿をめくる。
資金の流れは数年前から途切れず、無駄がない。
経路は複数に分散され、足取りを辿りにくい。
衝動で動く男に、ここまでの布石は打てない。
紙から視線を外さず、低く呟いた。
──あれは、駒だ。
「偶然でしょう」
王都から応援できた文官が、帳簿を覗き込みながら言った。
「地方でよくある資金流入です。商会が裏にいるだけかと」
合理的な推測だ。
間違ってはいない。理屈としては、十分に通る。
それでも、帳簿から視線を上げなかった。
頁をなぞっていた指が止まる。
数年前から、定期的に入る匿名の資金。
その記録を追っていた視線が、帳簿の端に記された小さな印で止まる。
隣国の王家の紋章を、どこか簡略化したような意匠。
確証はない。
だが──点が繋がる。符号する。辻褄が合う。
ばらばらだったものが、同じ方向を指している。
思い出すのは、回帰前の結末。
流言、毒、クーデター。
そして──処刑。
偶然ではない。偶然で済ませるつもりはない。
あの結末を、もう一度許す気はない。
窓の外から、祭りの歓声が微かに届く。
灯りが揺れている。
あの光の中に、彼女がいる。
──今度こそ、守る。
サイラスは静かに目を伏せた。
「……なるほど」
低く、独りごちると、サイラスは静かに一枚の紙を引き寄せた。
──これは、俺が片をつける。
その決意だけが、重く、確かなものとして胸に落ちていく。
祭りの音は、もう遠い。
揺れる灯りの向こうで、人々は笑い、夜はまだ明るいままだ。
──それでも。
彼の夜は、もう明けないことを。
まだ、誰も知らない。
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