55、拒否は許されない
言葉が落ちたあと、部屋は水を打ったように静まり返った。
誰も、すぐには口を開けない。
「売った?ただの行方不明者でしょう。貧民など、毎年いくらでも消える。いちいち領主が把握するものではありませんな」
フェルカは肩をすくめ、鼻で笑う。
人の命を、ただの数字でも扱うみたいに。
「第一、下民が何人減ろうと領地の損失には──」
「…………」
そこで、手が止まり紙をめくる音が途切れた。
自分でも気づかないほど静かに。
けれどその瞬間、部屋の空気が変わった。
目に見えない何かが、確かにひび割れた。
その微かな変化に、サイラス様の視線が静かにこちらへ向く。
後方では、ヴォルも気配だけで異変を察したのか、わずかに重心を落とした。
──けれど。
当のフェルカだけが、まだ気づかない。
自分の足元が、すでに崩れていることに。
「証拠もない話で、私を罪人扱いとは──」
「……もう一度」
声が落ちた。
自分でも驚くほど低く、凪いだ水面みたいに静かな声だった。
「今の言葉を、もう一度だけ言ってください」
フェルカが初めて言葉に詰まる。
視線が合っただけで、背筋に冷たいものが走った。
怒声も威圧もない。
ただ静かに見られているだけなのに、息が詰まる。
「あなたが奪った命の中に」
いつの間にか、指が書類を強く握り締めていて、その先だけがわずかに震えていた。
「……あなたが奪った日常の先で、死んだ子がいました」
フェルカは初めて、言葉を選べずに黙った。
視線がわずかに揺れる。
何かを計算するように口を開きかけて──結局、閉じた。
サイラス様の目が、わずかに細められた。
背後で、ヴォルの手が外套の内に沈む。
「……何も言わなかった。でも、助けてって目をしてた」
淡々としているはずの声に、抑えきれない何かが滲んでいた。
「……軽かったんです。触れた腕が、驚くほど軽くて……それでも、必死に生きようとしてた」
ゆっくりと顔を上げ、その瞳でまっすぐフェルカを射抜いた。
「あなたは今、それを“損失にならない”と?」
それは問いであり、断罪でもあった。
フェルカの喉がひくりと鳴る。
だが、言葉は出ない。
「……命を数でしか見られない人が……領主を名乗らないでください」
一歩前でたその瞬間、部屋の主導権が完全に入れ替わった。
余裕の笑みは消え、汗が額を伝う。
追い詰められているのはどちらか、もう明白だった。
「ふ、ふざけるなぁッ!! 証拠など作れる!お前らごと消してしまえば──!」
立ち上がり、短剣を抜いたその瞬間。
床を蹴る音が響き、影が走る。
次の瞬間には、フェルカの腕は捻り上げられていた。
「が、あああッ!?」
それを制したのはヴォルだった。
無言のまま容赦なく床へ叩き伏せ、骨が軋む音が鈍く響く。
すでに、完全制圧だった。
「動くな」
低い声が、静かに落ちた。
その瞬間、外から控えめなノックが響いた。
届けられたのは、王都の紋章が刻まれた封書だった。
「王太子殿下の名において命ずる。フェルカ、王都へ出頭せよ。拒否は許されない」
鎧の擦れる音が、逃げ場を塞ぐように静かに響く。
サイラス様がそれを受け取り、机に置く。
「王都出頭命令だ。拒否権はない」
フェルカの顔色が、完全に失われた。
「お、王太子……?」
その瞬間になって、ようやく気づいた。
この場の異様さに。
誰一人、焦っていない。
そして何より──あの少女が。
最初から最後まで、結果が分かっていたかのように、動じていない。
(……なんだ、こいつは)
噂が脳裏をよぎる。
王家には、表に出ることのない王女がいるという。
王族にしてはくすんだ、藁のような金髪。
そのせいで国王夫妻から王族と認められなかったと。
だが──ペリドットのような瞳だけは、王太子と瓜二つだと。
目の前の少女。
髪は短い。
だが、それ以外は──すべて一致していた。
すべてが繋がった瞬間、血の気が引いた。
「ま、さか……」
「……行きましょう、伯爵。あなたの罪は、王都で裁かれます」
ただ静かに告げた。
微笑みなど、必要なかった。
そこにあったのは、ただ確定した未来だけだった。
もはや覆ることのない、冷たい現実。
フェルカはようやく悟る。
自分が敵に回したのは、領民でも公爵家でもない ──王家そのものだった。
その瞬間、彼の運命は完全に閉じた。
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