53、王太子の夜は終わらない
お兄様視点での王都です。
夜の執務室に、灯りは一つだけ。
机の上には未処理の書類が山のように積まれ、インクの乾ききらない書類と、飲みかけの茶はとうに冷めていた。
この一ヶ月、まともに寝台に入った記憶はない。
それでも椅子に座ったまま次の書類へ手を伸ばした。
机には赤印の押された報告書がなおも積み上がり、窓の外はすでに夜更けだというのに、灯りだけが消えずに残っている。
最後の一枚に目を通し、ペンを置いたところで、扉が三度叩かれた。
「失礼いたします」
入室してきた副官トーマス・ヴァルナーは、無駄のない足取りで机前に立ち、即座に敬礼した。
「報告を」
「はっ。フェルカ商会の横流しに関与した騎士三名、証拠を確保。自白も取れました」
「……他は」
「三名とも、すでに騎士団本部地下拘禁房へ移送済み。外部との接触は完全に遮断しております。記録も押収済みです」
淡々とした声だった。
取り逃がしはないという確信だけが、そこにあった。
「……そうか」
短く息を吐く。盤面はほぼ詰みだ。
フェルカも、癒着した騎士も、すでに逃げ道はない。
「証人の保護は」
「完了しております。孤児院関係者、港湾労働者、全員安全圏へ。証言は明日、正式に記録予定です」
「法務局は」
「告発状の草案、すでに整っております。殿下の裁可待ちです」
先回りしてすべてが整えられている。有能だ。
サイラスがいなくとも回る体制は築いた──それでも胸の奥にわずかな空白が残る。
いつもなら、この位置にもう一人いるはずだった。
無言で資料を差し出し、必要な手を必要なだけ打って、自分より一歩先を読んでいる男。
(……いない、か)
苦笑がわずかに漏れる。
今あいつは王都ではなくエリザベスの隣だ。
それが最善だと分かっている──それでも、胸の奥が妙に静かだった。
(お前がいないと、静かすぎるな)
昔から、あいつはずっと隣にいた。
ただ、それが当たり前すぎて気づかなかっただけだ。
「殿下?」
「いや……問題ない」
感傷を振り払うように、視線を副官へ戻した。
「フェルカの召喚状は」
「明朝、正式に送達されます。出頭拒否は不可能かと」
「……そうだろうな」
机上の書類に並ぶのは、横流し、賄賂、背任、そして孤児院支援物資の窃取──救いようのない罪状ばかりだった。
紙を握る指先に、わずかに力がこもる。
胸の奥が、鈍く軋んだ。
ただ一つの感情だけが、静かに残る。
──二度と、奪わせない。
「……全員、逃がすな」
自分でも驚くほど低い声だった。
「はっ」
「一人残らずだ」
「承知しました」
副官は即答した。
胸の奥のざらつきが、わずかに引く。
一人、また一人と腐った部分を切り落としていく。
情は不要だ。
これは腐った部分を切り落とすだけの話だ。
「………例の女は」
「隔離済みです。接触者なし。王太子殿下直々の命により、魔力封じの拘束具を装着し、地下拘禁房に収容しています。外部接触を完全遮断しました」
「そうか……」
執務室の書類に封をし、立ち上がる。
「地下拘禁房へ向かう」
短く告げると、副官が無言で一礼した。
王族区画の廊下は、昼間だというのに静まり返っている。
赤い絨毯が足音を吸い込み、衛兵たちが道を開けた。
階段を下り、騎士団の詰所が並ぶ階層を抜け、立入禁止の扉を越えた瞬間、空気がひやりと変わる。
石の匂いと冷えた湿気に、かすかな鉄錆の臭気が混じっている。
地下へ続く螺旋階段は灯りが少なく、足音だけが硬く反響する。
一段、また一段と下りるたびに、王城の華やかさが遠ざかっていく。
残るのは罪と罰だけ。やがて、行き止まりのように分厚い鉄扉が現れた。
「王太子殿下」
看守が鍵を鳴らして錠を外す。
鈍い音とともに扉が開き、光の届かない拘禁房が口を開けた。
──ここが、この国の“底”だ。
中にいたのは、血の気を失った年若い少女だった。だが、その目だけが場違いなほど鋭い。
──ミリア。
ウェルシの孤児院で一度だけ顔を合わせたことがある。
その時は、よく働く気立てのいい娘だと、それだけの印象だった。
……それなのに。
視線が合った瞬間、胸の奥がわずかに軋む。
理由の説明できない、不快感にも似たざらつきが残った。
サイラスから聞かされた話が、脳裏をかすめる。
──回帰前、エリザベスを処刑台へ追い込んだ元凶。
その事実を思い出しただけで、無意識に指先に力が入った。
証拠も断定もまだ早い。
それでも、目を逸らしたくなるほどの違和感が胸に残った。
孤児院への訪問記録が不自然に多い女。
そして子供たちの診断書に共通するのは、原因不明の魔力枯渇──時期はすべて、彼女の出入りと重なっている。
「……王太子、殿下」
警戒した目がこちらを射抜く。
敵意とも怯えともつかない、濁った色だった。
──その呼び方に、わずかに眉が動く。
孤児院で会った時、身分は伏せていたはずだ。
名も、肩書きも、明かしていない。
……それでも、この女は迷いなくそう呼んだ。
胸の奥に、消えない違和感が沈んだ。
(……なぜ知っている?)
「孤児院に何をしに行っていた」
「……手伝いです。炊き出しとか、掃除とか……」
「ではなぜ、お前が来た日の後にだけ子供が倒れる」
「……知らない」
「嘘だな」
机には、没収した金属器具が置かれていた。
異様な構造──少なくとも、この国の工芸ではない。
「これは何だ」
ほんの刹那、ミリアの瞳がわずかに揺れる──動揺だ。
(当たりか)
「……拾っただけです」
「そうか。なら鑑定に回す。隣国由来の工芸品らしい。国宝級だそうだ」
肩がわずかに跳ねたが、沈黙は崩れない。
「……何も知りません」
かたくなに沈黙を守るその目は、自分ではなく誰かを庇っている。
──黒幕がいる。
だが、まだ尻尾は掴めない。
「当面は拘束する。証拠が揃えば正式起訴だ」
情を挟む段階ではないと切り捨て、背を向ける。
捜査はまだ途中だ。
(……エリザベスの方も同時進行か)
フェルカの横流しと、魔力枯渇事件。
別件のはずの二つが、どこかで繋がっている。
──そんな確信があった。
まだ全貌は見えない。
──だからこそ、手は止めない。
「──今度こそ、終わらせる」
守れなかった未来は、二度と繰り返させない。
地下拘禁房の鉄扉が、背後で鈍く閉まった。
湿った冷気が途切れ、石階段を上るごとに空気が少しずつ軽くなる。
罪と罰の匂いが、遠ざかっていった。
隣を歩いていたトーマスが口を開く。
「この後の指示はいかがなさいますか」
「証人の最終確認と、告発状の精査を。夜明けまでに整えろ」
「はっ」
階段を上りきり、騎士団区画の前で足を止める。
「……ここでいい。お前は持ち場へ戻れ」
「承知しました……殿下の無茶振りにも、そろそろ慣れましたので」
「……頼りにしている」
「光栄です」
一礼し、無駄のない動きで踵を返す。
足音が遠ざかっていき、やがて静寂だけが残った。
(……一人、か)
少し前なら、当然のように隣にサイラスがいた。
それでいい。──それが最善だ。
小さく息を吐き、前を向く。
長い廊下の先にある執務室は、まだ山積みの仕事と未決の罪が待つ場所だ。
終わっていない。
まだ、止まれない。
執務室に戻り、机上の書類を手に取る。
山のように積まれた罪状が、まだ戦いが終わっていないことを告げていた。
「……エリザベス」
お前の望む通りに。
今度こそ、この国を正す。
誰一人、泣かせはしない。
小さく息を吐き、何事もなかったかのようにペンを走らせる。
王太子の夜は、まだ終わらない。
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