52、返すべきもの
夜の港は静かだった。
潮の匂いと、船具のきしむ音だけが響いている。
荷揚げ場の外れに並ぶ古い倉庫群。
フェルカの商会が裏で使っているのは、その一角だ。
「ここが、フェルカの中継倉庫……」
小声で呟くと、隣のヴォルが頷いた。
「ああ。表向きは穀物商だが、実際は横流しと密輸の巣だ。最近、孤児院や貧民街に届くはずの支援物資が、ことごとく消えてる。そして全部ここを通ってる」
「……最低ね」
吐き捨てるように呟く。
飢えた子どもたちから奪い取り、それを平然と金に換える──そんな連中を、許してやる理由など最初から一つもなかった。
外套のフードを深く引き下ろす。
視界の端で、黒布がかすかに揺れた。
「エリー……前に出るなら、俺が先に行く」
「大丈夫、前には出ないわ……あなたの後ろにいる。でも、行くのは私よ……この国が奪ったものなら、私が目を逸らすわけにはいかないもの」
名も顔も知られる必要はない。
功績も、称賛もいらない。
ただ──守れれば、それでいい。
ヴォルが扉に触れ、小さく笑った。
「開いてる。昼に細工しといた鍵、まだ気づかれてねぇ」
「さすがね」
「見張り二人。今、裏に回った。三十秒だ。行け」
外套のフードを深く被り、気配を殺して走り出した。
音を殺して駆け、壁を蹴り、低い窓から倉庫の中へ身を滑り込ませる。
埃っぽい空気と油の匂いが満ち、積み上げられた木箱の隙間で、油灯の光がかすかに揺れていた。
そして──
「……何これ」
箱の蓋を開けた瞬間、言葉が漏れた。
中に詰め込まれていたのは、支援用の保存食だった。
神殿の紋章入り──本来なら孤児院に届くはずのもの。
それが未開封のまま、山のように積まれている。
……売るために、止めていたのだろう。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
静かで、底の冷えた怒りが、ゆっくりと広がっていった。
「……全部、証拠にする」
奥へ進み、帳簿棚を見つけると、片っ端からページをめくった。
そこに並んでいたのは、横流しの記録、偽名の取引、そして騎士団の一部と癒着した金の流れ──どれも目を疑う内容ばかりだった。
そして──
「当たり、ね」
フェルカの名が、はっきりと記されている。
日付も、金額も、署名も──何一つ欠けていない。
言い逃れなど、できるはずがなかった。
目を走らせたサイラスが、小さく息を吐く。
「これだけあれば十分だ」
それを素早く袋に詰め、外套の内側へ押し込んだ。
そのとき──
「おい、見回りまだ戻らねぇのか?」
「裏口が開いてたぞ」
足音が近づく。
まずい──見つかれば面倒だ。
すぐに油灯を吹き消し、壁を蹴って棚に手をかけ、そのまま梁の上へ身を引き上げる。
息を潜め、暗がりに身を伏せた。
数人の男たちが、すぐ真下を通り過ぎていく。
「……異常なし、か?」
「気のせいだろ」
男たちは気づかない。
梁の影に身を伏せたまま、息を殺して数を数え、足音が遠ざかるのを待つ。
そして、気配が完全に消えたのを確認して、するりと窓から外へ抜け出した。
着地と同時に、裏の見張りをしていたヴォルが戻ってきた。
「どうだった」
「……大当たりだ。やっぱりここだったな。帳簿も物資も揃ってる。フェルカは真っ黒だ」
「……これで、あの子たちに返せるわ」
「……やるね、義賊様」
「その呼び方、やめてくれる?」
そう言いながら、思わず小さく笑みがこぼれる。
夜風が外套を揺らし、遠くで犬の鳴き声がひとつ響いた。
「でも、まだ終わりじゃない」
これだけでは、まだ断罪には届かない。
王都では、今もお兄様が動いている。
騎士団、証人、法的手続き──逃げ道を一つずつ潰している最中だ。
全部揃って初めて、あの男は裁ける。
だから──
「一ヶ月……それだけあれば十分。証拠を揃えて、被害も止める。ここで終わらせる」
名が知られる必要はない。
私がやったと分かる必要もない。
「……もう、同じことは繰り返させない」
小さく呟き、外套のフードを引き下ろす。
それだけで、足は自然と前に出た。
懐に押し込んだ帳簿が、確かな重みを伝えてくる。
もう立ち止まる理由はない。
私は来た道を引き返し、皆の待つ倉庫へ急ぐ。
裏手の路地は、相変わらず静かだった。
見張りたちは表の巡回に気を取られているのか、こちらを気にする様子もない。
三人で倉庫の間を抜け、裏通りを進む。
いくつか角を曲がると、仲間たちの待つ倉庫が見えてきた。
周囲に人影がないのを確かめ、扉を三度、決まった間隔で叩く。
内側から小さく合図があり、扉が開く。
「おかえり、嬢ちゃんたち。無事だったか?」
待機していた義賊たちが一斉に顔を上げる。
いつの間にか、袋はサイラスが持っていた。
何も言わず、当たり前みたいに。
倉庫に入るなり、彼は無言で袋を机の上へ置いた。
どさりと重たい音が響く。
私はフードを外し、袋の中身を机に広げた。
古びた帳簿が何冊も重なる。
「これが取引記録。横流しの一覧と、騎士団への賄賂の金の流れ……全部残ってたわ」
「……マジかよ」
「証拠としては十分すぎる量だ。これだけあれば、フェルカは逃げられない」
サイラス様が淡々と告げると、空気がわずかに緩む。
保存食の箱を思い出し、私は静かに言った。
「物資も確認したわ。神殿の支援品がそのまま山積みだった。まだ手はつけられてない」
「……じゃあ、取り戻せるんだな」
「ええ。全部」
その言葉に、張り詰めていた空気がほどける。
安堵の気配に、私は小さく頷いた。
「準備を始めましょう。返すべきものを返して、終わらせるわ」
それだけ告げて、机の上の帳簿に手を置く。
確かな重みが、指先に残った。
──これで、終わらせられる。




