46、ただ、隣に
「……私」
思ったより、声は静かだった。
震えているはずなのに、ひどく冷えている。
「私、嘘をつきました」
喉がひりつく。
「手紙……あれ、本当は……借用書だったんです」
視界の端で、サイラス様がわずかに目を細める。
もう知っているはずなのに。
それでも、言わなきゃいけない気がした。
「お母さんからの言葉なんて……一文字も、書いてなかった」
胸が、ぎゅっと潰れる。
「あの子が……『読んでほしい』って……だから……私が勝手に、作ったんです。全部」
最低だ。
そう思う。
自分が欲しかった言葉を。
欲しかった母親を。
レオンに押しつけただけだ。
「……ただの、自己満足です」
俯いたまま、かすかに笑う。
「私が欲しかっただけなんです……ああいう言葉が……」
沈黙が下りる。
責められると思った。
叱られると思った。
それでやっと、楽になれる気がしていたのに。
「……エリー」
落ちてきた声は、驚くほど優しかった。
顔を上げる。
サイラス様は怒っていない。
ただ、まっすぐ私を見ている。
「さっきの話の続きだ」
並んで立ち、同じ方向を見る。
責めるためじゃなく、隣に立つための距離。
「君は、嘘をついたことを“罪”だと言ったね」
「……はい」
「でも、俺は」
少しだけ言葉を探してから、静かな声で続ける。
「君があの子にあげたのは、“嘘”じゃない……時間だと思ってる」
息が止まった。
「最後まで一人じゃない時間──愛されてるって信じられる時間」
ゆっくり、私を見る。
「それは……誰にでもできることじゃない」
「でも……私は」
首を振る。
「親の愛情が欲しかったから……自分が欲しかった言葉を、勝手にあげただけで……」
サイラス様は、少しだけ困ったように笑った。
「……そうだな」
否定しない。
でも。
「エリーが欲しかった言葉だったんだろ?」
「……っ」
「それを、あの子に渡した……それが出来る人間を、俺は弱いなんて思わない」
まっすぐ、私だけを見る。
低く、やわらかい声でサイラス様は言葉を続けた。
「君がどんなふうに育ってきたか、俺は知ってる」
低い声が、すぐ隣に落ちる。
「欲しいものほど、先に諦める癖があるだろ」
どきりとした。
図星すぎて、言葉が出ない。
「自分の分は後回しで、誰かに譲って……それが当たり前みたいな顔して」
責めているわけじゃない。
ただ、見てきた事実を並べるみたいに。
「それでも……誰かを妬んだり、奪ったりはしない」
私を見る目が、やわらかい。
「……渡すほうを選ぶんだ、君は」
ほんの少しだけ、笑った。
「そんな面倒で、損ばっかりしてる人間を……俺は、ひとりしか知らない」
「………」
「エリザベスって言うんだけど」
胸の奥が、ぎゅっと締まった。
どうして。
どうしてこの人は、こんなふうに名前を呼ぶんだろう。
涙が、勝手に滲んだ。
「……そんなの、正しい人の理屈です」
「違う」
迷いのない声だった。
「俺にとっては、君が選んだ時点で正解なんだよ」
心臓が、止まりそうになる。
「君が選んだなら、それでいい。……俺は、そんな君の味方でいるって決めてる」
その一言で。
胸の奥の何かが、崩れた。
「……私……」
声が震えて、喉がひどく痛い。
「サイラス様の前だと……間違っても、いい気がしてしまうんです」
責められない。
見捨てられない。
失敗しても、嫌われない。
そんな場所、今までなかった。
「弱いままでも……ここに、いていい気がして……」
情けない。
甘えでしかないと、分かっているのに。
それでも。
「……それが、少しだけ……救いで……」
そこまで言った瞬間、とん、と額にやわらかな温度が触れた。
サイラス様の額だった。
息が混ざるほど、近い距離。
「……それでいい」
低く、優しい声。
「俺の前くらい、無理しなくていい」
胸が、苦しい。
「けど、これ以上は言わないでくれ」
「……え?」
「……続きは……今、君がそれを言ったら……俺は、君の覚悟ごと奪ってしまう」
冗談みたいなのに、少しだけ本気が混ざっている。
「だから今日はここまでだ」
そっと離れる。
「……俺は、最初から隣にいる」
この人は前に立たないし、奪わない。
ただ、私のそばにいてくれる。
それが、どうしようもなく優しかった。
廊下に出ると壁にもたれるように、ヴォルが立っていた。
「……終わったか」
「ヴォル……いつから……」
「さあ」
目を逸らす。
「……嘘、だったんでしょ」
「……聞いてたのね」
「……それでいいよ」
「……え?」
「本当かどうかなんてどうでもいい。泣かせなかった。それで十分だ」
「姫さんが傷つく必要なんてない。次は俺がやる。……そんなものまで姫さんが背負わなくていい」
前に立つ人。
全部引き受けようとする人。
サイラス様は隣に立つ。
ヴォルは前に立つ。
同じ“守る”なのに、こんなにも違う。
「……ありがとう」
そう言うと、ヴォルは小さく鼻を鳴らしただけだった。
◇◇◇
屋敷に戻る頃には、もう夜気が肌に刺さるほど冷えていた。
正面玄関の扉を開けた瞬間。
「……エリザベス?」
聞き慣れた声に、肩が跳ねる。
「お兄様……?」
外套を着たままのお兄様が立っていた。
ちょうど帰ってきたところらしい。
目が合った瞬間、兄の眉が寄る。
「……どうした」
「え?」
「顔色が悪い。立ってるのもしんどい顔してる」
そんなに分かりやすいだろうか。
何でもないと言おうとしたのに、声が出なかった。
兄は小さく舌打ちして、ため息をつく。
「……今日はもういい。部屋で休め」
「でも——」
「いいから」
短い命令口調だけど、その声はどこか焦っていた。
「お前が無理してるのを見るのは嫌だ」
それだけ言って、そっと背中を押される。
強くもないのに、涙が出そうになった。
その声が、やけに優しかった。
「……はい」
素直に頷くと、兄はようやく安心したみたいに視線を逸らした。
「サイラス」
「分かってる」
もう一度だけ、短いやり取り。
長年連れ添った戦友みたいな、隙のない呼吸。
サイラス様は私の背にそっと手を添える。
触れているか分からないくらいの距離。
でも。
「……行こう、エリー」
ただ、それだけなのに。
この人たちがいる。
それだけで、もう十分だった。
今日一日、ずっと張りつめていた糸が、ようやく切れた気がした。




