45、生きていてね、と言えなかった
(……入っていかない)
いつもなら確かに感じるはずの、命の手応えがない。
魔力が届かない。
弾かれているんじゃない。
──流れ込む先が、ない。
「……どうして」
もう一度、力を込める。
もっと深く。もっと強く。
「お願い……癒して……!」
けれど、何度流しても空を掴むみたいにすり抜けていく。
残ったのはひどく冷えた指先だけだった。
「……エリー。一度、離れて」
背後から、サイラス様の低い声が落ちる。
「でも……! まだ、間に合うはず……!」
「エリー」
強くはないけれど、逆らえない声だった。
そっと肩に触れられる。
「治癒魔法は……術者の力だけで治す魔法じゃない」
「……え?」
「本人の魔力を借りて、体に“治れ”と命じる術だ」
頭が、理解を拒んだ。
「だから──」
サイラス様の視線が、静かにレオンへ落ちた。
「体内に魔力がなければ、魔法は通らない」
「……っ、そんな……だって、この子は……魔力があるから、ここに……」
「気づいているだろう」
それはとても低い声だった。
「……ほとんど、残っていない。まるで最初から、抜け落ちているみたいだ」
静かで、容赦のない宣告だった。
昨日の違和感が、空っぽのまま胸の奥に棘のように残っている。
──気のせいなんかじゃ、なかった。
「……それじゃあ、私……何も……できないの……?」
喉が詰まり、声がうまく出ない。
──助けられない?
目の前で誰かが死ぬのを、ただ──見ていることしか。
「……お姉、ちゃん……」
かすれた声が聞こえてはっと顔を上げると、レオンがうっすら目を開けていた。
「レオン……! 大丈夫よ、すぐ──」
言葉が、喉に引っかかる。
──嘘だ。
自分でも、分かっている。
それでも、言うしかなかった。
レオンの手が、弱々しく胸元を探る。
「……てがみ……」
ぽとり、と紙が落ちた。
くしゃくしゃの、擦り切れた紙。
「あ……これ……お母さん……から、の……」
息が、途切れる。
震える指で、私へ差し出される。
「……まだ……読めて、なくて……。いま……読まなきゃ、いけない気がして……ぼく……字、読めない、から……」
一言ごとに、呼吸を挟むみたいに。
「……おかあさんからだって……読んで……お願い……」
すがるみたいに、信じきった目で、まっすぐに私を見る。
──ああ。
震える手で、落ちた手紙を拾い上げる。
薄くて、硬い紙は、何度も握りしめられた皺が残っている。
宝物みたいに大事にされてきたのが、触れただけでわかった。
私はゆっくりとそれを開いた。
でも、そこにあったのは⸻
⸻
借用書
金貨二枚
返済期限:次の月の満月まで
期限内に返済なき場合、
債務者本人、またはその血縁者をもって返済に代える
異議は認めない
⸻
署名はない。
発行元のみが、感情のない文字で記されていた。
……意味が、入ってこない。
これは、違う。
母から子へ向けた手紙なんかじゃない。
謝罪も、愛情も――名前すら、どこにもなかった。
ただの──取立ての紙切れ。
冷たい数字と、期限と、脅しだけ。
それを──レオンは、ずっと宝物みたいに握りしめていた。
胸がひゅっと縮み、息ができない。
視界が揺れて、紙が指から滑り落ちた。
床に落ちる前に、サイラス様が拾う。
何も言わず、ただそっと私に戻す。
その沈黙だけで、十分だった。
(……こんなの読めるわけ、ないでしょう……)
喉が焼けて、泣きそうになる。
それでもレオンは、不安そうな目で私を見上げ、母親の言葉を、愛された証を、ただ静かに待っていた。
──私は。
(これは、真実じゃない……でも。この子にとっての真実は──)
深く息を吸い、唇を持ち上げて、私は笑顔を作った――嘘をつくために。
「……『レオンへ』」
声が、遠い。
自分の声じゃないみたいだった。
「『ごめんね。急にいなくなって』」
口にした瞬間、胸の奥がひどくざらついた。
──こんなふうに、謝られたことなんて、一度もない。
「『あなたは、ずっといい子でした』」
“いい子”という言葉が、喉に引っかかる。
ただそれだけの一言が、どうしてこんなに痛いのか分からなかった。
「『お手伝いも、笑顔も、全部……お母さんの宝物です』」
宝物。
胸の奥に落ちてこない、遠い言葉だった。
私には、一度も向けられたことのない言葉。
それでも、続ける。
「『離れていても、ずっと大好きです』」
視界がにじむ。
自分が、誰に話しかけているのかさえわからなくなる。
……レオン。そうだ。この子に。
「『大きくなったら、また会いましょう』」
かすれた声で、それでも私は読み続けた。
止まることなんて、できなかった。
止まったら、この言葉たちが、どこにも行き場を失ってしまう気がして。
「『だから、それまで──生きていてね』」
最後だけ、うまく笑えなかった。
レオンが小さく息を吐き、ほどけるみたいに笑う。
「……そっか……よかった……」
その顔があんまり穏やかで、胸の奥のどこかが静かにひび割れた。
細い指が、私の袖を掴む。
「……ありがとう、お姉ちゃん。お母さん……もう、怒ってないんだね……」
──怒ってない。
その言葉が、刃みたいに胸を抉った。
──私は一度も、そんなふうに思えたことがない。
その手の力が、少しずつ、ほどけていった。
穏やかな寝顔だけが、そこにあった。
まるで、本当にただ眠っているみたいに。
「……レオン?」
もう一度呼んだが返事はなく、胸に手を当てる。
鼓動は──ない。
分かっているのに。
分かっていたはずなのに。
「……うそ……」
声は落ち、泣き声にもならない乾いた音だけがこぼれた。
握った手は冷たく、さっきまであんなに必死に私を掴んでいた温もりは、もう消えていた。
「……起きて……ほら……手紙、最後まで読んでないでしょう……?」
自分でも何を言っているのかわからない。ただ笑わせたかっただけなのに、声が震えた。
視界が滲み、こぼれた雫がぽたりとレオンの手の甲に落ちる。
ああ、と遅れて気づく。
こんなときなのに、私は泣いていた。
声も出ないまま、ただ涙だけが勝手に溢れていく。
助けるって、決めたのに。
誰より先に、傷つく人を救うって誓ったのに。
それなのに──何もできない自分が、悔しくてたまらなかった。
目の前の、たった一人さえ守れなかった。
私は、何もできなかったのだ。
胸の奥がぐちゃぐちゃに潰れて、悔しいのか、悲しいのか、それすらもう分からない。
ただ。
ただ、ひとつだけ。
さっき読んだ言葉だけが、いつまでも頭の中で繰り返されていた。
『あなたは、ずっといい子でした』
『大好きです』
そんな言葉、一度ももらったことなんてないのに。
ぎゅっと、レオンのもう握り返してくれない小さな手を握る。
「……ずるいよ。そんな顔で、安心して眠らないで……」
かすれた声が、勝手に漏れた。
私のほうが。
私のほうが、まだ──
そこで、喉が詰まる。
続きなんて、言えるはずがなかった。
部屋の外で、風が鳴る。
世界は、何もなかったみたいに静かだった。
その静けさが、どうしようもなく残酷だった。
読んでいただきありがとうございます!




