42、同じ場所に立つ
先頭を歩いていたお兄様が人の流れが少し緩んだところで、歩調を落とした。
「……エリザベス」
呼ばれて見ると、お兄様がこちらを見ていた。
さっきまでの張りつめた表情より、ほんの少しだけ柔らいでいる。
「どうしたの?お兄様」
「いや、大したことじゃない」
そう言いながら、視線は私の少し後ろに向けられていた。
正確には一定の距離を保って歩く二人へ。
「さっきから思ってたんだが……」
「何……?」
「ずいぶん、歩きやすそうだな」
一瞬、意味がわからず首を傾げる。
「サイラスは前に出すぎない」
「……」
「ヴォルは下がりすぎない」
「……」
二人とも、言葉を返さない。
けれど否定もしなかった。
「それでいて、視線だけは外さない。……器用なことをする」
「護衛、だから?」
私がそう言うとお兄様は小さく息を吐き、軽く笑った。
「そうだな。護衛だ」
「……?」
お兄様が言いたいことがよくわからない。
そんな気持ちが顔にでていたのか。私に視線を戻すと少しおかしそうな顔をした。
「まぁ、お前が窮屈じゃないならそれでいい。無理はするなよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
それだけ言って、私の返事を聞いてお兄様は前へ戻っていく。
何も責めず、何も踏み込まない。
——それなのに、全部わかっている背中だった。
ふと、空を見上げる。
さっきまで青かったはずの空に、いつの間にか薄い雲が広がっていた。
風が変わり、潮の匂いに、湿った重さが混じる。
(……雨、降りそう)
まだ落ちてこない。
けれど、確実に近づいている気配。
湿った風が吹いた瞬間、ヴォルが小さく息を詰めたのが見えた。
眉が、ほんのわずかに寄る。
視線に気づいたのか、彼はすぐに顔を上げた。
「……何」
「……何でもないわ」
そう言われてしまえば、それ以上は踏み込めない。
ヴォルがそれを望んでいないことくらい、わかっている。
それでも——
胸の奥に、小さなざわめきだけが残った。
雲の影が、街にゆっくりと落ちていくのを見ながら、その小さなざわめきをそっと胸の奥へ押し込めた。
◇◇◇
ウェルザンでの拠点となる家、というよりも屋敷に着いた頃には、思っていた通り雨が降り始めた。
ちなみに、アルゴさんが着いて早々に滞在するための物資の調達などをしてくれていたため、この屋敷はすでに整っている状態だ。
窓を打つ音が、一定のリズムで部屋を満たしている。
静かなはずなのに、どこか落ち着かない。
サイラス様とお兄様は、情報収集のために出ていった。
もともと、私は行く予定ではなかったし——
私がそうなるように話を運んだからなのもある。
それでもサイラス様も、何か気になることがあるのか「本当はエリーのそばにいたいんだけど」といいながらも出かけて行った。
部屋に残ったのは、私とヴォルだけ。
灯りは落としていないのに、空気が少し暗い。
雨のせいか、それとも——。
「……寒くない?」
「……問題ない」
返事が返るまで、ほんの一拍、間があった。
短い答え。けれど、声がわずかに掠れている。
私は椅子から立ち上がり、無理のない距離で彼の背に声をかけた。
「ヴォル。……無理、してるでしょう」
「してない」
即答だった。
それが、かえって苦しかった。
彼は心配されることを、望んでいない。
それでも私は黙っていることもできなくて、なんてことないことを言った。
「雨、強くなってきたわね……」
「……はぁ……姫さんは、ほんとに……」
それは苦笑とも諦めともつかない小さな声だった。
「……サイラスが出ていくように仕向けたのも……俺の体調を気にしたんでしょ」
図星だった。
けれど、私はそれを肯定しなかった。
「……護衛として、あなたがここにいた方が安心だと思っただけよ」
半分は本当で、半分は嘘。
ヴォルは、その言い方に小さく息を吐く。
「……そういうとこだよね」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
どこか、困ったような声音だった。
ヴォルは壁際に立ったまま、窓の外を見ている。
雨粒の流れを追うでもなく、ただ視線を置いているだけ。
「……昔。仕事で……判断を誤った。それで仲間が死んだ」
低い声で静かな語り口なのに、胸がざわつく。
「……なんでこんなこと言ってるのか、自分でもわからない。姫さんに言う必要なんてどこにもない。聞かせていい話でもない」
拳が、膝の上でぎゅっと握られている。
白くなるほど強く。
雨音よりも、その沈黙の方が重かった。
「……それでも。このまま、何もなかった顔で姫さんのそばにいる方が……」
声がさらに低く落ち、言葉が途切れる。
続きを飲み込んだ横顔が、ほんのわずかに歪んだ。
——怖い。
そう言っているように見えた。
私は胸の前で手を重ねる。
何も言わない。遮らない。逃げ道も作らない。
彼が、自分の足で言葉を選ぶのを待つ。
「……そいつは真っ直ぐで、融通が利かなくて……馬鹿みたいに正義感が強くて。……でも、誰よりも人を引きつける奴だった」
—— 一瞬だけ、あの人の姿が重なった。
気づいても、口にはしないけど。
「……守りたい相手がいたんだ。そいつは、最後までその人のことしか見てなかった」
短く息を吸う。
「止められなかった。……いや、止めなかったのかもしれない」
低く、感情の抜けた声だった。
「俺が迷わなければ、違う結果だったと思ってる」
雨音の中でも、その声ははっきりと響いている。
「最期に言われた。『お前は……俺みたいに、なるなよ……生きろ』」
その続きを、彼は言わない。
言わなくても、十分だった。
——私だけじゃない。
ヴォルも、同じ場所に立っていたんだ。
「……それ以来、余計な情は持たない方がいいって思った。守れないなら、最初から近づかない方がマシだろ」
淡々とした声でそれだけ言って、ヴォルは視線を逸らした。
——だから彼は、いつも一人で請け負ってきたのだろう。
誰も巻き込まないために。失わないために。
雨だけが、強くなる。
一歩だけ近づいた。
触れない距離で、止まる。
「……怖かったのね」
彼が、わずかに目を見開く。
「嫌われるのがじゃない。私が心配することを……許せなくなるのが、怖いのね」
ヴォルは、何も言えなかった。
——そうか。
彼もまた、贖っているのだ。
過去を消すためじゃない。
背負ったまま生きるために。
それは、私が選んだ道ととてもよく似ていた。
私は深く息を吸ってから、はっきりと言う。
「……それでいいのよ」
彼の視線が、揺れる。
「あなたが背負ったものは軽くならない。忘れてもいけない」
でも、と言葉を続ける。
「逃げなかった……だから今も、ここにいる」
長い沈黙のあと、ヴォルは小さく息を吐いた。
「……怖い人だな、姫さんは」
「そう?」
「……それでもいいって言われるのが、一番きつい」
私は、微かに笑った。
「心配は、やめないわ」
彼は何も返さなかった。
ただ、雨の音の中で、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
生きていてくれれば、それでよかった——
きっと、ただそれだけだったのだ。
だから私は、もう何も言わなかった。
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