38、雨の日
「アルゴさん?あら……ヴォルと、あっちに……」
思わず、さっきまで二人がいた方を見る。
(歩いて行かなかった……?)
けれど、そこにはもう誰の姿もない。
「どうしたんですか?」
すぐ目の前のアルゴさんが、穏やかに微笑んだ。
「……ヴォルさんの居場所は、だいたい分かりますよ」
変わらない声と笑顔──そのはずなのに、胸の奥に小さな違和感が引っかかった。
「……ご存じでした? ヴォルさん、雨の日は極端に調子を落とすんです」
「調子を落とす……? 体調が悪くなるってことですか?」
「……そう言っておきましょうか」
曖昧な言い方で、それ以上は語らない。
なのに、なぜか“知っているふう”に笑う。
(……あれ?)
アルゴさんって、こんな回りくどい話し方をする人だったかしら。
少ししか知らないが、簡潔で事務的な人だったはずだ。
「……きっかけがあって、それからずっとですね」
ぽつりと落ちた声は、感情が削ぎ落とされたみたいに淡々としていて、その静けさがかえって不気味だった。
思わず背筋が粟立つ。
「その話……私が聞いてもいい内容なんですか?」
そう言った瞬間。
「そいつは違う!! 離れて!!」
振り向くと、血を流した“本物のアルゴさん”が立っていた。
「え……?」
「……あら、もうバレちゃったか」
そして隣で、“アルゴの姿をした男”がくつくつ笑う。
その笑い方が、まるで別人だった。
突風が吹き荒れ、馬車が大きく揺れた。
視界が白く霞んだ次の瞬間、目の前に立っていた人物に息を呑む。
「あなた……ラルフさん!?」
「ああ、やっと気づいてくれました?」
くす、と喉の奥で笑う。
けれどその笑い方は、以前よりも低く、どこか湿っていて。
同じ声のはずなのに、まるで知らない人みたいだった。
目だけが、少しも笑っていない。
「驚いた顔、いいですね。人って本当に追い詰められると、同じ表情をするんだ」
観察するみたいに、じっと私を覗き込む。
ぞくり、と背筋が冷えた。
次の瞬間、腕を掴まれる。
「ちょ、っ……!」
「暴れないでください。落としたら壊れちゃう」
まるで荷物みたいに、軽々と担ぎ上げられた。
「エリーっ!!!」
遠くでサイラス様の叫び声が聞こえる。
景色が一気に流れる。
木々が線になり、雨が顔を打つ。
速すぎる。
人間の走り方じゃない。
「離して……!」
「少しだけ我慢してください。あなた、意外と軽いので助かります。運搬向きですね」
感想みたいに呟かれて、背筋が凍った。
(この人……怖い……)
しばらく走ったあと、ラルフさんは急に足を止めた。
目の前に広がるのは、底の見えない崖。
「……あれ。おかしいな。このルート、逃げ切れるはずだったんだけど」
立ち止まって周囲を見回し、ふっと笑った。
「……ああ。逃げ道、消されてる……やっぱり、あなたなら、追ってくると思ってた」
そのとき。
いつの間にか、木々の奥にヴォルが立っていた。
雨に濡れたまま、ただ静かに。
「……会えた」
ラルフさんの声が、甘くなる。
ぞっとするくらい、嬉しそうに。
乱暴に地面へ放り出される。
「あなたが来てくれると思ったんですよ」
ラルフさんは、もう私を見ていなかった。
まるで最初から存在しなかったかのように視線を外し、その目はヴォルだけに吸い寄せられている。
熱っぽく、危険で、見ているこちらの背筋が冷えるほどに。
「……逃げる理由がなくなった。よかった」
ラルフさんは静かに暗器を取り出した。
その指先が、わずかに震えている。
恐怖ではない。
戦いを前にした人間のものとは思えないほど、甘い熱を帯びた震えだった。
「今度こそ……近くで、ちゃんとあなたを見せてください」
「……鬱陶しいな。来なよ」
ヴォルが短刀を抜いた、その瞬間。
視界から姿が消える。
──刹那、耳元で金属音が弾けた。
「あは……はは……!」
ラルフさんが笑う。
「やっぱりあなたは、綺麗だ……動きが、無駄がなくて……!」
戦いながら、うっとりと呟く。
「解体したら、きっと綺麗でしょうね……」
(……っ)
背筋が粟立った。
あれは戦いに酔う人間の目じゃない。
感情ではなく、興味だけで人を解体しそうな──研究者の目だった。
「親友を殺したときも、こんな雨でしたか?」
「……無駄口が多い」
低い声が落ちた。
そしてヴォルが一歩踏み込んだ瞬間、空気そのものが張り詰める。
息をすることさえ許されない圧迫感。
理性が考えるより先に、本能が叫んだ。
──この一撃で、終わる。
ラルフさんの足が泥に滑った。
体勢が崩れる。背後は、逃げ場のない崖。
「あ……」
ほんの一瞬。
致命的な隙が生まれた、その刹那。
ヴォルは迷わなかった。
伸びた腕が、ラルフさんの胸元を柄で打つ。
斬るでもなく、刺すでもなく──ただ、押し出すように。
「……え」
「はい、終わり」
感情のない声だった。
次の瞬間、ラルフさんの体がふっと宙に浮き、そのまま後ろへ倒れていく。
「ま、待っ──」
伸ばした手は空を掴むだけで、何にも触れない。
「ヴォル──」
途切れた悲鳴は、強まった雨音に呑まれ、そのまま暗い谷底へと吸い込まれて消えた。
……もう、姿は見えなかった。
「……落ち、た?」
「怪我は?」
「あ、大丈夫……え──きゃあ!」
短剣をしまったヴォルが、何事もなかった顔で歩いてくる。
そしてそのまま、ひょい、と私を横抱きにした。
「え!? ちょ、ちょっとヴォル! おろして!」
「黙って」
(だ、だってこんな……)
抗議しかけて――気づく。
触れているヴォルの体が、やけに熱い。
「あの……ヴォル。もしかして、熱が……」
「問題ない」
「でも……」
「俺のことは気にしなくていい」
ぴしゃりと言い切られる。
それ以上、何も言えなくなった。
けれど。
その横顔は、明らかに怠そうで。
無理をしているのが、嫌でも伝わってくる。
ふと、ラルフさんの言葉が蘇った。
──『雨の日は調子を落とす』
(……それが本当なら)
私が連れ去られたせいで、無理をさせてしまったのかもしれない。
転移魔法だってあった。
もっと早く、どうにでもできたはずなのに。
いろんなことが一度に起きすぎて、何も考えられなかった。
今さら後悔している自分が、ひどく間抜けに思えた。
読んでいただきありがとうございます!




