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第二章 異世界召喚は突然に

 子猫といえど、侮ることなかれ。

 中学の頃は野球部という運動部代表のような部活動をしていた義仁だったが、それでも追いつけない。三年間補欠という悲しい結果に終わってしまったものの、日々の体力作り故にかけっこには自信があった。けれど子猫との距離は縮まるばかりか、広がっていく一方ではないか。


「んにゃろぉ~~~~! ふんんっ」


 意気込んでペースを上げるも、未だその差は変わらず。しばらく直進していた一人と一匹だったが、今は朝の通勤通学の時間帯だ。人も多くなり、某関東圏のとある住宅街その一角で突如行われた鬼ごっこは、あまりにもこちらが不利だった。

 通り過ぎる人々に肩がぶつかって舌打ちされることも、急に飛び出してしまい車を運転していた中年男性に「あぶねぇだろうが!」と怒られもした。しまいにはフランスパンを咥えた女子中学生と、曲がり角でぶつかりそうになるイベントも発生するところだった。それでも子猫を見失わなかったのは、義仁自身の優秀な観察眼と直感によるものだ。でなければ、諭吉と栄一による相乗効果かもしれない。

 チリン、と鈴の音が聞こえたと思えば、だいぶ先を走っていた猫が路地裏へと姿を消した。

 はて、鈴なんてつけていただろうかという疑問もあったが、深く気にする余裕はなかった。

 義仁も同じく路地裏に入ろうと視線を向ければ、そこは陽の当っているこちら側とは全く違う、異質な雰囲気が漂っている。思わず、一歩引いてしまった。

 それは本能的恐怖からくるものだ。息を呑むその先で、暗闇に包まれた路地裏の中から、例の猫の瞳が二つ、ただこちらをじっと見つめている。

 明らかな挑発だと、義仁は思った。嫌な予感が、この足を震わせている。

 遠くの双眼は、未だ動く気配はない。

 そんなただならぬな雰囲気を前に彼が葛藤するのは、やはり善、私欲とを天秤にかけているからだろう。


 ——諭吉、栄一、諭吉、栄一……!


 脳内で呪文のように唱えられているその偉人名は、今の義仁を落ち着けるのには充分な効果があった。

 ふぅ、と一つ息を吐き、再び前に向き直る。

 一歩、大きく前に出た。黒猫は動かない。

 さらに片足で一歩を行く。黒猫はこちらから目を離さない。

 一歩ずつ、けれど確実に、その距離は縮まっていく。


「いい子だから、な。動くな、動くな~」


 ゆったりとした動作で、その場に屈む。もう腕が届く距離だ。驚かさないように、慎重になる。吹き出る汗が額に張り付いて、気持ちが悪い。朝から全力疾走する自分も悪いが、猫も悪い。絶対に逃がさんと闘志を燃やし、狙いを定めて猫に抱きつく。

 子猫は、意外にもあっさりと腕の中に収まった。


「なんだよお前、結構大人しいのか? ん~~?」


 つい子供をあやすような言葉遣いになっていたことに気付き、慌てて周囲を見渡す。幸いにも、この薄気味悪い路地裏に入ってこようとする輩は自分の他にいないらしい。毛並みの良い背中をゆっくり撫でてやると、子猫は気持ちよさそうに目を細めた。

 チリン、と再び、あの音が鳴り響いたのが分かった。しかしどうやら、その音はこの猫からではないように思う。ではどこからなのだろうか。


 ——リン、リン。

 今度は二回。まるで自分を呼んでいるかのように誘う鈴の音は、路地裏の、さらに奥の方からだ。

 好奇心に駆られ、義仁は猫を抱いたまま歩き出す。


「……誰かいますか?」


 みゃあ、と子猫が答えた。

「おーい」と声をかければ、再び鈴の音が、それに応えるかのようにひとつ、鳴った。

 すると突然、足元には見たことのない、光輝く魔法陣のようなものが広がっていく。そういう時期とは縁もゆかりもなかったために、誰かの仕業かとあたりを見回す。しかし人影らしきものはない。焦る気持ちに共鳴するかのように、足元のそれは段々と光を強めていく。視界は悪くなる一方で、耐え切れず視界を覆った。


「なんだこれっ……うわ!」


 次第に体の感覚というのも、分からなくなってしまっていった。天地前後左右、今自分が立っているのか座っているのか。

 ぐるぐるとまわる意識の中、ただ腕の中にいる子猫の体温だけが、自分という存在を確立させてくれているような気がした。

 混沌の中、最後には大きな鈍痛を腰から感じ、義仁は「いってぇ」と呟きながら該当する箇所をさする。脳みそがまだ頭蓋骨の中でかき混ぜられているような最悪の気分だ。

 ふいに顎を、なにかに舐められる感覚があった。ちろちろと小さな舌で懸命に舐めているであろう心当たりのある生き物に、義仁は震える手で頭を撫でてやる。


「う、……あぁあ……、?」


 火花が散る視界の中、義仁は目の前から迫る二つの大きな存在に気付いた。しかしその正体を予測し避けようにも、今の脳みそでは情報処理が追い付かず、回避のための信号も体は拒絶している。

 視界から全てがぼやけきっているようだ。

 ぞわりとした悪寒が、一気に背筋を走り抜ける。

 複数回の瞬きの後、再びうっすらと、目を開けた。体の五感が鮮明になっていくのが分かる。

 そうして、やっと、理解する。自分は今、見知らぬ誰かに抱き寄せられていると。その体は僅かに震えており、耳元から聞こえてくる嗚咽から、この人物は泣いているのだと察した。

 何がそんなに悲しいのだろうか。

 ついその背中に手を当て、優しく、そしてゆっくりとさすってやった。それに気付いたのか目の前の人物は、さらに大きくわんわんと本格的に泣き始めてしまった。

 みゃぁお、と子猫の苦しそうな、悲しそうな鳴き声が下からあがる。

 苦しいですと意思表示のため口を開けば、腹の奥から込み上げる熱が、喉のすぐ下まで迫っていた。


 ——ヤバイ。これは非常に、まずい。


「……気持ち悪い」


 自分の口から出たであろう言葉は、まるで病人のように細く、弱弱しいものだった。

 そして——。

「きゃぁあ!」という遠くの悲鳴。




 それは今、この場所に小さな虹が架かったという証拠に、他ならないのだ。


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